城ぶら「水戸城」!国内最大級の土造り城郭…徳川御三家の名城

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、日本最大級の土造りの城、水戸城です。日本100名城の一つです。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

水戸城は、北を那珂川、南を千波湖に挟まれた、日本最大規模を誇る土造りの城です。
土塁と堀によって、東から「下の丸」「本丸」「二の丸」「三の丸」の4つの区画(曲輪)を構成しています。
江戸期には三階櫓が建設されていますが、昭和20年(1945)の水戸空襲により焼失。再建されていません。

水戸城の起源は、平安時代にまでさかのぼります。
坂東平氏の流れをくむ馬場資幹により、建久年間(1190-98年)に築かれたとされます。

室町時代に入ると、上杉禅秀の乱(1416)に乗じて、馬場氏を追いやり江戸氏が入城
江戸氏は7代約170年、当地を治めました。その時代に現在の二の丸が築かれたと見られています。
(※写真は、復元された二の丸角櫓。)

室町時代末期に入ると、豊臣秀吉による小田原征伐(1590)において北条方に加担した江戸氏を、秀吉方につき常陸国の所領安堵を得た佐竹義宣が急襲します。
これにより江戸氏は滅亡。佐竹義宣は本拠を太田城から水戸城に移し、水戸城は佐竹氏の居城となりました。この時代に、三の丸、二の丸、本丸、下の丸が連なる、現在の縄張りの基礎ができたと考えられています。

その佐竹氏は、関ヶ原の戦い(1600)で曖昧な態度に終始したため、慶長7年(1602)に水戸から追放、出羽秋田に転封されます。
その後に家康が城主として送り込んだのが、五男信吉。その後、十男頼宜、十一男頼房と家康の子が城主を務めます。以後も水戸藩の重要性は変わらず、徳川御三家(水戸徳川家)の居城として明治廃城まで続きました。
(※写真は、水戸藩初代藩主徳川頼房像と二代藩主徳川光圀像。)

■城ぶらり その1

それでは、徳川御三家の城にして、日本最大級の土造りの城、「水戸城」をぶら歩きします。

水戸城は、東から「下の丸」「本丸」「二の丸」「三の丸」の4つの曲輪で構成される、連郭式平山城です。
それでは、東から順に城ぶらしていきましょう。

「下の丸」と「本丸」は現在水戸第一高等学校の敷地になっています。一般の方は立ち入り禁止ですが、入口にある門は見学することができます。
これは、水戸城唯一の現存建築物で、本丸の表門にあたる橋詰門であったと考えられています。薬医門と呼ばれる形式の門で、創建は安土桃山時代、佐竹氏の頃と推定されています。

「本丸」と「二の丸」を隔てる堀跡は、現在JR水郡線の線路が走っています。
幅約40m、深さ約22m。さすが日本最大級の土造りの城、線路の両脇に切り立つ土塁は迫力満点。列車から見上げる斜面は壮観だろうなぁ…。

続いて「二の丸」へ。二の丸には、藩の政務の中心施設である御殿が置かれていました。
残念ながら御殿を含む当時の建物は残っていませんが、いくつか往時を偲ぶ史跡が復元されています。
まずは、二の丸北口にあたる「杉山門」。門の内側には、敵の侵入を遅らせるため、土塁で桝形が形成されていたそうです。

さらに令和3年(2021)に復元されたのが、「二の丸角櫓」です。
水戸城には4か所の角櫓がありましたが、いずれも火災等で焼失。二の丸角櫓は、地元の皆様や「一枚瓦城主」による寄付金などで復元が実現しました。

二の丸角櫓内部では、水戸城の歴史や、一連の整備事業の歩みを紹介するパネルや実物資料を展示しています。
貴重な水戸城の門扉や、発掘調査で出土した瓦をもとに復元制作された鬼瓦も。水戸徳川家の家紋「三つ葉葵」が盛り上がるように彫刻されています。

■城ぶら その2

水戸藩二代藩主を務めたのが、水戸黄門で知られる徳川光圀です。
光圀の功績は、わが国の歴史書である大日本史の編纂。その編纂所として創設されたのが「彰考館」です。
彰考館は最初江戸に置かれましたが、光圀隠居後、水戸城二の丸にも置かれ、幕末まで編纂作業が進められました。

水戸城の正門に当たる、最も格式の高い門が「大手門」。二の丸跡の西端にあります。
佐竹氏が水戸城主だった慶長6年(1601)頃に建てられ、その後何度か建て替えが行われた後、明治年間に解体されたと考えられています。

こちらも多くの「一枚瓦城主」らの寄付金などにより、令和2年(2020)に復元
江戸時代初期の様式を残す荘厳な姿を令和の時代に再現しています。土塁に取り付く城門としては国内屈指の規模を誇ります。

「三の丸」には、水戸藩校であった「弘道館」が現存しています。
弘道館は、水戸藩9代藩主徳川斉昭によって創設されました。10.5haに及ぶ敷地には、正庁(学校御殿)や至善堂、文館、武館、医学館、調練場跡などが造られました。もちろん、藩校としては日本最大規模です。

最後の将軍・徳川慶喜も幼少期に弘道館で学びました。しかし幕末期、ここから発展した水戸学が急進的な改革思想を生み出します。
明治元年(1868)改革派と保守派が衝突、弘道館で激しい戦いを繰り広げ多くの建物を焼失しました。正門に残る当時の弾痕が戦闘の激しさを物語ります。なお、奇跡的に正庁や至善堂は難を逃れました。

この水戸城は、繰り返しますが、日本最大級の土造りの城です。
其処彼処に、土塁や堀など土造りの美しい遺構が残っています。

中でも圧巻なのは、三の丸の西側(現茨城県三の丸庁舎の西側)に広がる巨大な空堀・土塁跡
これを見るだけで、徳川家の権力の大きさを感じることができます。

三の丸北側・北柵御門付近にも、美しい空堀・土塁跡が残っています。
これは、空堀ファン土塁ファンにはたまらない造形です。さすが日本最大規模を誇る土造りの城。石垣もいいですが、土造りもいいですよね。うっとりです…。


さすがは、徳川御三家の居城「水戸城」
その荘厳さと美しさにすっかり呑み込まれてしまいました。最近復元が進んでいるのもうれしいですね。

復元された大手門や角櫓、名君の事績を今に伝える彰考館や弘道館、往時の威容が偲ばれる巨大な空堀・土塁跡…。
今日の城ぶらは、見どころいっぱいの常陸の名城「水戸城」でした。ありがとう、水戸城!

■基本情報

名称:水戸城址
所在地:茨城県水戸市三の丸
アクセス:JR水戸駅から徒歩7分

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