城ぶら「長岡城」!越後を抑えた城跡と河井継之助ゆかりの地めぐり

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、城ぶら「長岡城」!越後を抑えた城跡と河井継之助ゆかりの地めぐりです。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

長岡城が築かれたのは元和2年(1616年)。越後長岡藩を立藩した堀直寄が築城しました。
直寄ははじめ蔵王堂城に入りましたが、同地が信濃川に面し洪水に弱いことから、信濃川から少し離れた河岸段丘に位置する長岡の地を選んだとされます。

直寄は2年後の元和4年(1618年)に越後村上に移封。代わって牧野忠成が城主となります。
牧野氏(三河牧野氏)は東三河に起源を有する徳川譜代の大名です。越後長岡の地で牧野氏は、外様大名の多い越後を抑える役割を担いました。

その後約250年にわたり、牧野氏は長岡藩を治めます。幕末に幕府と討幕軍が一触即発となると、牧野家家臣の河井継之助らが調停に奔走しました。
そんな継之助の動きもむなしく戊辰戦争が勃発。長岡城は新政府軍の標的とされ、北越戦争の舞台となりました。戦火で城は焼失、その後再建されることはありませんでした。

■城ぶらり

それでは、牧野氏の居城として徳川幕府を支えた長岡城跡をぶら歩きしましょう。

新潟県長岡市の中心部にあった長岡城は、かつて越後長岡藩の政治と軍事の拠点として栄えた平城です。
戊辰戦争(北越戦争)により城は焼失、跡地は再開発されました。本丸跡は、現在の長岡駅となっています。

二の丸跡は現在、長岡市役所本庁舎などを擁する複合交流施設「アオーレ長岡」となっています。
往時の城の遺構は残っていませんが、こうして跡地は新たに生まれ変わり、多くの人に利用されています。一画には、ひっそりと長岡城址の碑が建っていました。

■河井継之助

江戸時代末期、長岡藩に一人の英傑が生まれました。それが、牧野氏家臣の河井継之助です。
司馬遼太郎の小説「峠」の主人公。役所広司主演で「峠 最期のサムライ」として映画化もされました(2022年)。

継之助は、青年期に佐久間象山や山田方谷に学び、西洋砲術や兵制、西洋の政治思想にも触れます。
これらの経験をもとに、長岡藩の近代化を推進、商業振興や教育振興、新式銃の導入など、大胆な改革を断行しました。

(河井継之助記念館)

戊辰戦争が勃発すると、新政府軍と旧幕府方との間で対立が深まる中、継之助は「長岡藩はどちらにも与せず中立を守る」という独自方針を打ち出します。
しかし新政府軍の圧力と戦況の悪化により、最終的に旧幕府方に加わり奥羽越列藩同盟を結成、新政府軍と戦うことを決断しました。

長岡城を巡る攻防戦は激烈を極め、継之助は最新兵器「ガトリング砲」を駆使して奮戦(北越戦争)。
しかし戦いのさなか、八丁沖での戦闘で銃弾を受け重傷を負います。藩兵は一時的に長岡城を奪還するものの、再び落城。継之助は会津へと落ち延びます。
彼の信念は「民のため、藩のため」という一点に貫かれていたと伝えられます。継之助は会津へ向かう途上で容体が急変、只見の地で34歳の若さで息をひき取りました。

(河井継之助記念館展示)

現在、市内には継之助の足跡を辿る「河井継之助記念館」が建っています。
館内には、継之助の生涯を紹介する年表や愛用品・遺品、ガトリング砲の模型などが展示されています。

同じく市内には、河井継之助の遺骨を埋葬した墓のある栄凉寺があります。
同寺には、継之助を重用した長岡藩主・牧野忠訓ら牧野家代々の墓もあります。彼らが希求した平和への思いを胸に静かに手を合わせました。

(左:河井継之助の墓、右:牧野家代々の墓)

今日の夢中は、城ぶら「長岡城」!越後を抑えた城跡と河井継之助ゆかりの地めぐりでした。
ありがとう、長岡城! ありがとう、河井継之助!

■基本情報

名称:長岡城本丸跡
住所:新潟県長岡市大手通1丁目 長岡駅 大手口駅前広場
アクセス:JR長岡駅前すぐ

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