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館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、決戦!関ヶ原「関ヶ原古戦場決戦地」!ついに終結のとき…三成はなぜ敗れたか?です。
■ついに決着!関ヶ原
天下分け目の合戦、関ヶ原の戦い。序盤は一進一退の攻防が続きます。
膠着した戦況を動かしたのは、松尾山に陣取る小早川秀秋軍の寝返りでした。
秀秋は猛然と山を下りると大谷吉継軍を急襲。さらに脇坂安治や朽木元綱らも裏切ると、西軍は総崩れとなります。
大谷軍は壊滅、吉継本人も自刃。宇喜多秀家・小西行長軍も潰走。秀家は憤慨して秀秋と刺し違えようとしますが、家臣に止められ関ヶ原から退却したと伝わります。
ここに至って、黒田軍や細川軍などを相手に善戦していた石田三成軍も壊滅状態に…。
三成家臣の島左近は被弾して負傷しながらも奮戦、最後は黒田軍に突撃して戦死したとされます。三成は伊吹山方面に逃亡しました。
開戦から6時間ほどして…。関ヶ原の戦場に東軍の勝利の凱歌があがりました。
天下分け目の合戦、関ヶ原の戦いは、徳川家康率いる東軍の勝利で終結しました。
■関ヶ原古戦場決戦地
決戦!関ヶ原…。天下分け目の戦いもついに終結のときを迎えます。
今日は、関ヶ原の激戦が繰り広げられた史跡「関ケ原古戦場 決戦地」を訪れましょう。
現在は田園の広がるのどかな風景の中に、史跡「関ヶ原古戦場 決戦地」はあります。
当地には、「史蹟 関ヶ原古戦場 決戦地」と刻まれた石碑が建っています。その両側には、徳川と石田両家の家紋入りの旗がたなびきます。
(関ヶ原古戦場決戦地)
当地のすぐ北西には、石田三成が陣を敷いた笹尾山がそびえます。
そのため、この決戦地には東軍諸隊が集結。三成の首級を狙って最大級の激戦が繰り広げられた場所といわれています。
(笹尾山)
結果として、関ヶ原の戦いは、開戦から6時間ほどして終結。東軍の勝利となりました。
なぜ西軍は敗れたのか?さまざまな要因があるでしょうが、一つには、三成がはじめ意図した大垣城決戦から関ヶ原の野戦へと戦いの舞台が移ったこと。
家康が野戦が得意だったと言われていますが、それ以上に短期決戦に持ち込まれたことが、三成にとっては痛かった…。
三成の勝ち筋としては、長期戦にして大坂城にいる毛利輝元さらには豊臣秀頼を戦場に連れてきたかったことでしょう。そうしたら、豊臣恩顧の東軍方武将に動揺が広がったはず…。
(関ヶ原古戦場決戦地遠景と決戦地の旗)
続いて、西軍として参戦した武将の多くが、戦う前に家康に内応していたこと。
小早川秀秋の裏切りは言わずもがな、それと連携した脇坂安治や朽木元綱の裏切り。他にも吉川広家も家康に内応していて毛利秀元らの参戦を阻止しました。
結果として、西軍8万と言われているなかで、戦いに参加したのは、石田三成や宇喜多秀家、小西行長ら限られた軍勢でした。
後年、鶴翼の陣を敷いた西軍が有利という後講釈も生まれましたが、それは全軍が戦えばこそ。結果として東軍を包み込むはずの「翼」は機能しませんでした。
(関ヶ原古戦場決戦地)
もう一つは、三成と家康の将器の違い…。こうした西軍方武将の裏切りが生まれのも、それが一因でしょう。
名著、山岡荘八「徳川家康」では、三成が豊臣政権の継続を目的としたのに対し、家康がその先の泰平の世の実現まで見通していたことが、戦いの帰趨を分けたという解釈をしていました。
実際はどうあれ、三成に少しばかり才に走るところがあったのは否めないでしょう。
それが、かつて武断派から厭われ、この決戦のときも決定的な力を得られなかったのかもしれません。せめて秀頼を前面に出せてたら、戦況は変っていただろうに…。
そして関ヶ原に、東軍の勝利のかけ声がこだまします。この決戦地も、大いに東軍の声で沸いたことでしょう。
ついに関ヶ原は終結、西軍諸将は潰走しました。次回は、決戦!関ヶ原シリーズ最終回をお届けします。
■基本情報
名称:関ヶ原古戦場決戦地
住所:岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原1202
アクセス:JR関ヶ原駅から徒歩20分