城ぶら「淀古城」!悲劇の娘は秀吉の側室に…茶々から淀殿へ

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、城ぶら「淀古城」!悲劇の娘は秀吉の側室に…茶々から淀殿へ…です。

■家康を辿る物語

茶々、のちの淀殿。彼女は永禄12年(1569年)、近江国小谷で生まれました。
母は織田信長の妹・お市、父は近江国の戦国大名・浅井長政です。

長政とお市は夫婦仲もよく、茶々を含め一男三女に恵まれますが、長政が信長に敵対すると織田軍によって攻め滅ぼされます。
父の長政は自害、兄の万福丸は羽柴秀吉によって処刑。茶々はお市や妹達とともに城を脱出し、信長の保護のもとで育てられました。

天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が斃れると、母・お市は織田家宿老の柴田勝家と再婚。
このとき茶々も母や妹たちとともに、勝家の居城・越前北ノ庄へと移ります。しかし越前での生活は長く続きませんでした…。

(左:浅井三姉妹、右:お市/北ノ庄城址)

翌天正11年(1583年)、勝家が賤ケ岳の戦いで秀吉に敗れると、母・お市は勝家とともに自刃。茶々ら3姉妹は逃され、秀吉に保護されることとなりました。
その後、次女・初は若狭小浜藩主・京極高次のもとへ、三女・江は徳川秀忠へ嫁ぎます。そうした中で、茶々は秀吉の側室となりました(天正16年ごろ)。

天正17年(1589年)、秀吉との間に鶴松をもうけます。喜んだ秀吉は、山城国にある淀城を茶々に与えました。このことから、茶々は「淀殿」と呼ばれるようになります。
しかし鶴松は天正19年に夭逝…。気落ちした秀吉は、甥の秀次を後継者に定めますが、なんと茶々は再び身籠りました

そして茶々は文禄2年(1593年)8月3日に男児を産みました。「拾」と名付けられたその子こそ、のちに世を揺るがす運命の人物・豊臣秀頼でした。

■淀古城

茶々が「淀殿」と呼ばれる契機となった「淀城」
のちに江戸時代に入ってから淀の地に淀城(新淀城)が築かれたため、茶々に与えられた淀城は「淀古城」と呼ばれています。

その淀古城は、京都南部の山城国、宇治川・桂川・木津川が合流する要衝の地にありました。
そのため武将らが争う政治抗争の舞台にもなり、応仁の乱のときも激しい戦場となったと伝えられます。

相当な規模の城郭があったと推察されますが、後に廃城となったため詳細は不明。
現在、淀古城の遺構は残っておらず、跡地の一角に建つ妙教寺に石碑が建つのみです。

「史跡」と記された淀古城址の石碑には次のように記載されています。
「此処は戦国時代の始、細川管領家が築城し、薬師寺与一、岩成左通、淀君の居城となった淀古城の址である」。

ちなみに、碑にある「岩成左通」は三好三人衆の一人・岩成友通のことと思われ、かつて淀を含む山城国西部を支配していました。
この友通は、足利義昭に与して織田信長と対立。淀古城に立て籠もって戦いますが、ここを攻め落としたのが織田軍の羽柴秀吉でした。いろいろ因縁を感じますね…。

そんな淀城から呼び名を得た「淀殿」こと茶々姫。奇しくも、彼女が新たな戦乱を引き起こすことになるのです…。
続きはまた、当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」にて綴っていきたいと思います。

■基本情報

名称:淀古城址
住所:京都府京都市伏見区納所北城堀46
アクセス:京阪「淀駅」から徒歩10分

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