明智光秀敗走す!山崎の戦い本陣跡そして光秀最期の城「勝龍寺城」

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、明智光秀敗走す!山崎の戦い本陣跡そして光秀最期の城「勝龍寺城」です。

■家康を辿る物語

明智光秀と羽柴秀吉が激突した"天下分け目の天王山"「山崎の戦い」
天正10年(1582年)6月13日午後4時ごろ、戦いの火ぶたが切って落とされます。

はじめは一進一退の攻防が続きますが、秀吉軍の池田恒興・元助らが密かに円明寺川を渡河して、光秀軍の津田信春の部隊を奇襲。
津田軍が潰走すると、同じく秀吉方の丹羽長秀らが光秀本軍に攻撃を仕掛けます。

この攻撃により光秀軍は総崩れ。天下分け目の決戦は、日暮れた後に終わりました。
敗れた明智光秀は勝龍寺城に撤退。このとき1万6千いた兵は、脱走離散などにより700ほどになっていたといいます。

光秀は夜が更けるのを待って少数の近臣とともに勝龍寺城を抜け出し、本拠地・坂本城を目指します。
しかしその途中、山科小栗栖の藪で農民の落ち武者狩りに遭い竹槍で刺されて絶命。明智光秀死す…享年55歳でした。

■明智光秀本陣跡

明智光秀対羽柴秀吉、天下分け目の一大決戦「山崎の戦い」
前回のブログでは、秀吉が本陣を置いた山崎城・宝積寺を訪問しました。

今回は、明智光秀が本陣を置いたとされる「御坊塚」を訪れましょう。
この「御坊塚」、史書などに記載はあるのですが、実際の所在地については明らかではありません

候補地は2つ。一つは境野古墳群のなかの「境野1号墳」
同地を訪れると当時の遺構は残っていませんが、「明智光秀本陣跡」の石碑と案内板が置かれています。当地で空堀跡や鉄砲玉も見つかっていることから、長らく本陣とみなされてきました。

しかし、近年になって新たな候補として浮上したのが、境野1号墳から北へ徒歩10分ほどにある「恵解山古墳」です。
こちらも古墳跡。古墳は小高い台地になっていることが多いので、陣を置くのに適していたのでしょう。

ここでも火縄銃の鉄砲玉が多数出土、さらに天王山側の前面に堀跡が見つかり、御坊塚の可能性が出てきました。
はたしてどちらが本陣跡だったのでしょうか…。いずれだったにしても、山崎の戦いの終盤、秀吉軍が光秀の本陣に攻め寄せます。光秀は本陣を捨て撤退せざるを得ませんでした。

■勝龍寺城

秀吉との一大決戦に敗れた明智光秀が撤退したのは、天王山の北方にある勝龍寺城です。
本能寺の変の際、織田方の城だったのを光秀が占拠し拠点としていました。

同城は現在、本丸跡と沼田丸跡が勝竜寺城公園として整備されています。
本丸跡は、東西約105m、南北約70m。周囲を堀が囲み、模擬櫓や模擬塀などが再現されています。

本丸内には、光秀の娘・玉(後の細川ガラシャ)と細川忠興の像もあります。
ここ勝龍寺城は2人が幸せな新婚生活を送った場所。しかし、光秀の謀反により状況は一変…玉は悲劇の女性となりました

くわしくは、以前訪れた際にまとめたブログ記事をご覧ください。

勝竜寺城公園から北東へ200mほどの「神足神社」に戦国時代を偲ぶ遺構が残っています。
それが「勝龍寺城土塁・空堀跡」です。これは、城下町を囲うように設けられた外郭線の一部と考えられています。

勝龍寺城に撤退した光秀は、夜中に城を抜け出し本拠地の坂本城を目指します。しかしその途上で落ち武者狩りに遭い死亡…。
織田信長を討った男、明智光秀。その名は歴史に刻まれるも、それは"英雄"としてではなく"逆臣"としてでした。

今日の夢中は、意に反して"逆臣"と呼ばれた武将、明智光秀の「山崎の戦い本陣跡」と最期の城「勝龍寺城」を訪れました。
織田信長、そして信長を討った男を瞬く間に失い、混迷の兆しを見せる戦国の世…。その行方についてはまた、当ブログで綴っていくことにしましょう。

■基本情報

名称:勝龍寺城跡
住所:京都府長岡京市勝竜寺13−1
アクセス:JR長岡京駅から徒歩で10分
営業時間:(4月~10月)09:00~18:00 (11月~3月)09:00~17:00
休業:12月28日~1月4日

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