真田幸村、九度山を出る!真田三代ゆかりの「真田庵」、軌跡を辿る「九度山・真田ミュージアム」

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、真田幸村、九度山を出る!真田三代ゆかりの「真田庵」、軌跡を辿る「九度山・真田ミュージアム」です。

■家康を辿る物語

合戦は避けられない…。そう判断した豊臣方は、旧秀吉恩顧の大名たちに参集を求めます。
しかし今は徳川の世…応じる者はありませんでした。そこで頼ったのは、関ヶ原の戦いで敗れ、戦を渇望する反徳川の牢人たちでした。

その一人が、真田信繁。後に「真田幸村」として広く知られることになる武将です。
幸村は、関ヶ原合戦で父・昌幸と共に西軍に加勢。上田城に籠城し、徳川秀忠軍を足止めするなど徳川方を苦しめました。

関ヶ原合戦の後、死罪となるところを兄・信之とその舅である本多忠勝の取り成しがあって、九度山に蟄居となっていました。
この幸村のもとに、豊臣方から登城を求める声がかかります。なお、父・昌幸はすでにこの世にありませんでした。

幸村の大阪入りを警戒し監視が強まるなか、幸村は一族郎党と共に九度山から忽然と姿を消します
以前から山中の抜け道・脇道をつくっていたとか、村びとを呼び集め酒宴を催して酔わせたとか諸説ありますが、形はどうあれ幸村は再び徳川と戦うために、大坂城に馳せ参じたのです。

■九度山

ついに、この男が歴史の舞台に登場します。真田信繁(さなだのぶしげ)。
関ヶ原で徳川秀忠軍を足止めした真田昌幸の次男。関ヶ原後は、九度山に蟄居となっていました。
後世に「真田幸村」(さなだゆきむら)の名で知られる戦国最後の英傑です。

その幸村が14年にも及ぶ配流生活を送ったゆかりの地、九度山を訪れましょう。
南海電鉄高野線に乗って九度山駅へ。駅には、真田家の家紋「六文銭」が掲げられています。列車も、真田軍の象徴「赤備え」の赤でした。

歩いて向かったのは「善名称院」(ぜんみょうしょういん)。真田幸村父子の屋敷跡に建てられたお寺です。
そのため「真田庵」とも呼ばれています。昌幸と幸村妻子、その近臣16人が当地で配流生活を送ったと伝わります。

九度山での生活は苦しく、徳川方に与した兄・信之や一族からの援助で凌いでいたそうです。
父・昌幸は再起を願って赦免工作を行いましたが、それもかなわず慶長16年(1611年)、九度山で病死しました。
真田庵の一角に、昌幸の墓所と、その霊を祀った「真田地主大権現」が建っています。無念だったでしょうね…しずかに手を合わせました。

その遺志を幸村が継ぎました。豊臣と徳川の関係が緊迫すると、豊臣秀頼から援軍を求められます
すると幸村は、徳川の監視の目をかいくぐり、嫡男・大助らと共にひそかに九度山を脱出し、大坂城に入城しました。

ここから無名の幸村が、「日ノ本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と呼ばれる活躍を見せることになるんですよねぇ…。
九度山には、そんな幸村をはじめとした真田父子の軌跡を展示する「九度山・真田ミュージアム」があります。
入口では、真田昌幸・幸村・大助の真田三代が甲冑姿で来場者をお出迎え。胸アツです…。

館内は、真田三代の足跡や九度山での生活、大坂の陣における活躍などがパネル展示されています。
ドラマ仕立ての映像や「真田丸」のジオラマなどもあって、真田ファンにはたまらない内容となっています。

幸村の来援に大坂城はわき立ちます。そして迎える大阪の陣。果たして戦いの行方は…。
続きはまた、当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」にて綴ってまいります。

■基本情報

名称:善名称院(真田庵)
住所:和歌山県伊都郡九度山町九度山1413
アクセス:南海高野線「九度山」駅から徒歩10分

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