こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。
今日の夢中は、横浜にある戦国の城跡、小机城です。
■城語り
まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。
小机城は、永享年間(15世紀前半)に、関東管領上杉氏によって築かれたと言われます。
この城が歴史に登場したのは、上杉氏の家臣が主家に対して反乱を起こした、長尾景春の乱(1476~80年)。
このとき、景春の味方をした豊嶋氏が小机城に立て籠もり攻守戦を繰り広げました。
この小机城を攻撃したのが、江戸城を築城したことで有名な太田道灌。
道潅は城攻めにあたり、「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠んで味方を鼓舞しました。
そして鶴見川対岸の亀の甲山から果敢に小机城に攻め寄せ、2か月かけて城を攻め落としました。
その後は廃城となりますが、この地に進出した後北条氏の版図に入ると、その前線拠点として改修が進みます。
城代を務めた笠原氏の手により城下が整備されたとみられ、一帯に居を構えた武士団は「小机衆」として北条氏の伸長を支えました。
その北条氏も、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐により滅亡。
このとき小机衆はほぼ全員が、小机から小田原城に駆け付け籠城。残された小机城はその後、徳川家康の関東入府のときに廃城となりました。
■城ぶらり
それでは、関東の戦国の一舞台を演じた、小机城をぶら歩きします。
JR小机駅を降りると、「小机城址までのご案内」に従って、歩いて小机城に向かいます。
商店街と住宅群を抜けると、緑に包まれた小高い丘が目の前に現れました。そこが、かつての小机城…。
今はこの丘一帯に、立派な竹林が広がっています。戦国期もそうだったのかしら…。
一見した限りは、戦国の城跡というよりは、京の竹林のような風情を感じるところです。
竹林の小径を登っていくと、そこが城跡であったことを示す遺構があります。
小高い丘の頂付近にある2つの郭の跡。本丸跡と二の丸跡です。
実は、どちらが本丸でどちらが二の丸であったのか、専門家の間でも意見が分かれているのだとか。
まずは、現在の表示では「本丸」とされている西側の郭へ。「小机城址」の石碑もある広場。かつては武士団が詰めていたのでしょうね…。
そこから一本道で繋がる東側の郭が、現在の表示では「二の丸」とされている場所です。
こちらも広いですね…。「井楼跡」の案内もあるので、ここに井桁(いげた) に組んだやぐらを立てて、敵陣を偵察していたのでしょう。
この本丸跡と二の丸跡をつなぐ道の両脇にも「櫓跡」(矢倉跡)があります。
今はベンチが置かれたりしていますが、戦のときは武士たちが詰めていたと思われます。
そして、ここが戦国の城跡であったことを確認できる最大の遺構があります。
それが「空堀」跡です。堀は、城の守備・攻撃のための重要な施設で、人工的につくられるものや地形を利用したものがあります。
ここはどうなのかな…。堀を掘ったようにも、両側に土を盛ったようにも見えますね。
敵方が攻め入って来たときに、土塁や櫓から弓矢を射たり鉄砲を撃ったりしました。
そう考えると、恐いですね…。いまは暢気に空堀跡を歩いていますが、戦時は最も危険地帯…。
堀の両側から敵の攻撃にさらされたのです。攻めた太田道灌は、よく「ちりぢり」にならなかったものです。
空堀跡は、本丸と二の丸の、北と南にあることが確認できます。
先ほどまでは南側の空堀跡を歩きましたが、次は北側へ。こちらは、斜面の両側に立派な孟宗竹が茂っています。
風情あるなぁ…なんて歩みを進めるのですが、そんな輩は、戦国期には格好の餌食。
両側から矢や鉄砲の玉が浴びせられたのでしょうね。そんなことを想像すると、つい早足になってしまうのでした…。
いやぁ、横浜にこんな城跡があったとは知らなんだ…。
小机城。激戦の跡も偲ばれる、続日本100名城にも選ばれている名城です。
ただ、本丸の西側の一部は、第三京浜道路建設の際に寸断・破壊されてしまっています。
やむなしとはいえ、経済成長の犠牲になったのは残念…。せめてこれ以上、この貴重な遺構が「ちりぢり」とならないことを祈るばかりです。
ありがとう、小机城! ぜったいに「ちりぢり」にならないで!
■基本情報
名称:小机城(小机城址市民の森)
所在地:神奈川県横浜市港北区小机町
アクセス:JR小机駅から徒歩15分