小田原合戦「長久保城」!秀吉軍が続々と集結、箱根越えの軍議を開く

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、小田原合戦「長久保城」!秀吉軍が続々と集結、箱根越えの軍議を開く…です。

■家康を辿る物語

名胡桃城事件をきっかけに、ついに戦いの火ぶたを切った小田原北条討伐
秀吉の動員令により、全国からなんと21万もの軍勢が関東・小田原に向けて出陣します。

これまで北条氏と秀吉との講和を模索してきた家康でしたが、北条氏の強硬な姿勢に断念。
秀吉に三男・長丸(後の秀忠)を人質として送り北条氏と断交する姿勢を示すと、先鋒部隊を関東に向けて出陣させました。

天正18年(1590)、家康は自らも軍を率いて、箱根越えの拠点となる長久保城に着陣します。
そこに西国から出征してきた武将らが集結。ついには秀吉も入城し、そこで山中城や韮山城などの攻略に向けた軍議を開きました。

一方、北条方も合戦に備えて領国から5万6千もの兵を動員
小田原城やその他支城の大規模な改修を行い、秀吉の大軍に備えます。両軍激突の行方は…?

■長久保城

秀吉による小田原征伐において、豊臣方の武将が集結したのが長久保城です。
今川・北条・武田の間で争奪戦が繰り広げられた城。このときは徳川家康の持城となっていました。

豊臣方への参陣を決めた家康は、北条の領地と隣接する長久保城を開放、豊臣方の諸将を受け入れました。
北条方の山中城とは10㎞も離れていない位置関係。ここで家康は秀吉と箱根越えの軍議を行ったとされます。

長久保城は現在の静岡県長泉町にありました。残念ながら、本丸跡などの主要部は開発等で消滅…。
今はわずかに、南曲輪の跡地に建つ城山神社境内に、当時の城の遺構を見ることができます。

境内を囲うように盛られた土の山…当時の土塁の跡です。
いつ頃つくられたものかは不明。戦国期に争奪戦が繰り広げられた場所なので、その時々の城主が防備を固めたのでしょう。

発掘調査によって、社殿の建つ場所は階段状の曲輪であったことが確認されています。
社殿の裏手、さらにその奥と、段々に平たい台地が広がります。今は遊具が置かれていますが、ここが曲輪跡と思われます。

この城山神社に残る遺構だけで結構な規模なので、往時は相当大きな城だったことが偲ばれます。たしかに秀吉軍が集まるくらいだから、大きな城じゃないと無理だよな…。
主要部が開発の犠牲になったのは残念…。そのうち八幡曲輪は裾野バイパスで大半が削られました。その道路脇に「長久保城址」の碑が建っています。

いよいよ始まる豊臣対北条の一大決戦。果たして、その合戦の行方はいかに…。
続きは、また当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」で綴っていきたいと思います。

■基本情報

名称:長久保城跡
住所:静岡県駿東郡長泉町下長窪1074
アクセス:JR長泉なめり駅から徒歩15分、またはJR三島駅からバス

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