こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、「三方ヶ原の戦い」に散る!家康を救った忠臣たち…激戦の跡"犀ヶ崖古戦場"へ…です。
■家康を辿る物語
三方ヶ原で完膚なきまで惨敗を喫した家康…。
武田軍の死者200に対し、徳川軍の死者2,000…。家康自身も討死する危険がありました。
しかし、家臣の夏目吉信や鈴木久三郎が、家康の身代わりとなって敵中に突入。
時間稼ぎして犠牲となることで、家康はかろうじて浜松城に逃げ帰ることができました。
なおも追撃してくる武田軍…。これに対して、家康は全ての城門を開いて篝火を焚き、「空城の計」を装いました。
すると目論見通り、浜松城までやって来た山県昌景は、なにか罠が仕掛けられていると警戒。城を攻めずに引き返しました。
さらに同夜、城から少し離れた犀ヶ崖付近に野営していた武田軍に対して、家康軍が夜襲を仕掛けます。
混乱した武田軍の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落し、多数の死傷者を出したといいます(犀ヶ崖の戦い)。
なんとか一矢を報いた家康ですが、信玄本軍はほぼ無傷…。
そして三方ヶ原勝利の勢いそのまま、さらに西へ、家康の領地を浸食していくのです。
■夏目吉信・本多忠真の碑
三方ヶ原で生涯最大の敗北を喫した家康…。
自らも討死の危機にさらされますが、なんとか生き延びられたのは、家臣たちの決死の戦いのおかげでした。
なかでも家臣の夏目吉信は、合戦のとき浜松城の留守居役を務めていましたが、味方の不利を知るや20騎余りを率いて出陣。
家康から兜と馬を借り、影武者として武田軍と立ち回ると、家康の身代わりとなって戦死しました。
夏目吉信は夏目広次とも言われる人物。この辺りの経緯は、大河ドラマ「どうする家康」で感動の逸話として放送されましたね…。
家康は後に吉信の忠烈に感じ墓所を建立しました。また現在、浜松市の犀ヶ崖古戦場の近くに、吉信の忠節を讃える「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」があります。
(夏目次郎左衛門吉信旌忠碑)
夏目吉信の他にも、三方ヶ原の戦いでは多くの譜代の家臣たちが命を落としています。
鳥居四郎左衛門や本多忠真、成瀬正義、田中義綱、中根正照、青木貞治…。
戦死した武将のうち本多忠真は、後に徳川四天王となる本多忠勝の育ての親。
三方ヶ原で家康が撤退する際、自ら殿(しんがり)を買って出て、旗指物を左右に突き刺すと追撃する武田軍に斬りこみ、壮絶な最期を遂げました。
本多忠真の忠義を称える戦功碑が、犀ヶ崖資料館の南側にあります。
明治期に建立されたものですが、碑の題字「表忠彰義之碑」は徳川家16代家達公によって書かれました。
(本多肥後守忠真の碑)
■犀ヶ崖古戦場
その本多忠真の碑のある一帯が、三方ヶ原合戦で戦場となった犀ヶ崖(さいががけ)です。
近くには、「三方原古戦場犀ヶ崖」と刻まれた石碑が建っています。
(三方原古戦場犀ヶ崖の碑)
三方ヶ原合戦のあと、徳川軍を追撃してきた武田軍はこの付近で野営していました。
そこに大久保忠世や天野康景らが夜襲を仕掛けると、混乱した武田軍は退路がわからず犀ヶ崖の谷底に転落していったと伝わります。
今も付近には、深い谷が残っています。今でも深さ13mほどで底が見えませんが、合戦当時は深さ40mほどで幅も長さも長大だったようです。
浜松城から北へ1㎞ほどの所に、こんな天然の断崖があるとは…。一節には家康軍が谷の上に布を張って橋に見せかけたと言われますが、真偽のほどは定かではありません。
(犀ヶ崖の断崖)
2023年7月、ここ犀ヶ崖古戦場に、三方ヶ原合戦の戦死者を悼む記念碑が建立されました。
除幕式には、「どうする家康」で本多忠真を演じた波岡一喜さんも出席したそうです。記念碑の裏側には趣旨に賛同したドラマ出演者の名前も刻まれています。
もちろん、家康役の松本潤さんや瀬名役の有村架純さんの名も…。
刻まれた文字「平和への祈りを込めて」は、まさにドラマの家康や瀬名が希求する思い。果たしてドラマの行方はどうなるのでしょうか…。
(「平和への祈りを込めて」記念碑)
しかし世は強き者が弱き者を喰らう戦国時代…。老練な信玄の前に、若き家康は完膚なきまでに叩きのめされます。
多くの有力家臣も失った家康に、信玄を止めることはできるのか?ただ、ここで思いもよらない事態が訪れるのです。信玄死す…。
それについてはまた、後の「夢中図書館 いざ城ぶら」で語ることにしましょう。
■基本情報
名称:犀ヶ崖古戦場
住所:静岡県浜松市中区鹿谷町25
アクセス:JR浜松駅北口からバスで15分
※夏目吉信の碑も本多忠真の碑も近くにあります。