安田義定ゆかり「放光寺」!頼朝の排斥に遭った甲斐源氏の最期

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

今日の夢中は、源平合戦で活躍した安田義定ゆかりの甲斐「放光寺」(山梨県甲州市)です。
「鎌倉殿の13人」ゆかりの地!源頼朝に粛清された安田義定最後の地「放光寺」、安田一門の墓所「雲光寺」をめぐります。

■安田義定

源平の合戦で武功を挙げた甲斐の武将がいました。
それが、安田義定です。甲斐源氏の棟梁・武田信義の叔父とも兄弟とも言われます。

治承4年(1180年)、源頼朝に呼応して挙兵すると、武田信義らとともに駿河に進出。
富士川の合戦で平家を敗走させ、遠江国の守護となりました。

その後も、源義仲追討や一ノ谷の戦い、奥州合戦に従軍すると、持ち前の武勇で活躍します。
特に一ノ谷の戦いでは、平経正・帥盛・教経等の将帥を討ち取る勲功を挙げました。

一大権勢を築いた義定ですが、それは独裁をめざす頼朝にとっては目障りなものでした。
建久4年(1193年)11月、義定の子・義資が永福寺薬師寺堂供養の際、院の女房に艶書を送った罪で殺害されます。

同年12月には、この事件の責任を負わされる形で義定も所領を没収、遠江守護も解職。
翌年8月には、謀反を企てたとして討伐され、梟首されました。享年61歳。

(左:放光寺境内、右:安田義定毘沙門天像)

■義定ゆかりの放光寺

安田義定最期の地とされるのが、山梨県甲州市にある「放光寺」(ほうこうじ)です。
歴史書「鎌倉大草紙」には、義定が当寺で自害したと記されています。

放光寺は、その義定が元暦元年(1184年)、一ノ谷の戦いの戦勝を記念して創立したとされます。
もとは山麓にあったものを義定が屋敷に近い同地に移し、安田一門の菩提寺としました。

頼朝が京都奈良や奥州平泉の平安文化を鎌倉に取り入れたように、義定も甲斐に仏教文化を招来しました。
当寺に残る大日如来坐像や天弓愛染明王坐像などは、そうした義定の仏教文化に対する造詣の深さを示すものと言えます。同じく安置されている毘沙門天像は義定をモデルにしたとされます。

(左:大日如来坐像、中:天弓愛染明王坐像、右:安田義定毘沙門天像)

■粛清の果て

ただ、そうした文化を含めた安田一族の隆盛を頼朝は許しませんでした。
棟梁・武田信義ら甲斐源氏の一族を次々に粛清すると、ついに安田義定をも誅殺しました。その廟所がひっそりと、放光寺の境内に佇んでいます。

ちなみに、義定誅殺の引き金になった息子・義資の艶書事件ですが、実は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時も同じく、女房に艶書を送ってるんですよね。
ただ、北条義時の場合は供養の際ではなかったため許されました。逆に源頼朝の仲介でその女房・姫の前(ドラマでは「比奈」)と結婚しています。

なんとも哀れな安田一族ですが、その安田一門の墓所とされる五輪塔群が、山梨市「雲光寺」(うんこうじ)にあります。
こちらも足を運んで、悲運の一族に手を合わせてきました。

(安田父子の五輪塔。義定(中央)と息子義資(左)・義季(右)のものとされる。)

源義経や範頼など兄弟、さらには甲斐源氏の武田信義や安田義定など、同じ源氏の一族を次々と排斥した頼朝…。
それは武家社会確立のために必要な犠牲だったのか、それとも自身の安泰を図るための詐術だったのか。疑心暗鬼がうごめくなか、鎌倉殿に風雲急を告げる出来事が起きるのです…。

■基本情報

【放光寺(ほうこうじ)】
所在地:山梨県甲州市塩山藤木2438
アクセス:塩山駅からタクシーで10分

【雲光寺(うんこうじ)】
所在地:山梨県山梨市下井尻673
アクセス:塩山駅からタクシーで8分

ブログランキングに参加しています

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事