小田原合戦「山中城」!圧巻の障子堀と畝堀…北条氏が築いた一大要塞城

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、小田原合戦「山中城」!圧巻の障子堀と畝堀…北条氏が築いた一大要塞城です。

■家康を辿る物語

秀吉の宣戦布告を受けた、北条氏政・氏直父子率いる関東の雄・北条氏
北条氏側はこの日の来ることを想定し、小田原城の拡大修築や支城の築城・改修を進めていました。

特に重点的に整備を進めたのは、東海道を進撃する秀吉軍に備えた関東西部、箱根山方面
本拠小田原を守る支城として、山中城や足柄城、韮山城の築城を進め、城砦も整備して迎撃態勢をとりました。

しかし、秀吉軍の兵力と勢いは、北条氏の想定を大きく上回るものでした。
天正18年(1590)2月、豊臣秀次、徳川家康ら先鋒隊が出立すると、秀吉自身も3月に出陣。同月には北条氏の支城や城砦に次々と攻め寄せました。

北条氏が西の防衛線として一大要塞を築いた山中城には、豊臣秀次・徳川軍が襲来。
圧倒的な兵力で郭を次々と攻め落とし、鉄壁のはずの山中城はわずか数時間で落城しました。

■山中城(二の丸・本丸・北の丸)

北条氏が築いた関東周辺に敷いた小田原防衛線…。
今日は、その中でも北条流の築城術をもって一大要塞を築いた「山中城」を訪れましょう。

山中城は、現在の静岡県三島市にあります。日本100名城にも選定されている国の史跡です。
築城は戦国時代末期(1560年代)、北条氏康によって築かれました。北条氏政の代に秀吉との関係が悪化、城の大規模な改修強化が進められました。
小田原合戦後まもなく廃城となったため、北条氏独特の城郭構造を多く残す戦国の城です。

まずは「二の丸跡」へ足を運びましょう。二の丸は、東西に延びる尾根を切って構築された曲輪です。尾根の頂部に当たる土塁から、南北方向に傾斜しています。
山中城最大の曲輪になっていて、隣接する本丸の機能を分担したものと考えられます。

続いて本丸へ向かいますが、二の丸との間に深い堀(本丸西堀)が築かれていました。
V字型の薬研堀(やけんぼり)、その南側に箱堀。箱堀は畝によって8区画に分けられ、その堀底から本丸土塁までは高さ9mあります。これは攻めづらい…。

そんな深い堀と高く盛られた土塁に守られているのが「本丸跡」です。
北東に天守櫓があり、戦時の司令塔としての機能を備えていたことがうかがい知れます。その司令部たる本丸広間は、現在の藤棚の位置にあったと考えられます。

本丸南にあるのが、「兵糧庫跡」と伝えられる場所です。その名のとおり兵糧が蓄えられていたのでしょう。
そこから眺めると、一段高く盛られた平坦部に本丸、さらに右奥に天守櫓と、二段三段の構えであることが分かります。

本丸の北側に広がるのが「北の丸跡」です。こちらも土塁と堀で守られています。
特に、城の外縁部となる外側の空堀が急峻。これは攻められない…。

■山中城(西の丸・障子堀)

そして、城好きにはたまらない「西の丸跡」へ。
西の丸は、3,400㎡の広大な面積を持つ曲輪で、山中城の西方防備の拠点です。

この広大な西の丸曲輪を中心に、東西に小さな曲輪(馬出)が築かれています。
それが、西櫓と元西櫓。北条氏の馬出はその形状から「角馬出」と呼ばれます。西の丸と2つの櫓で鉄壁の防御態勢を敷いていたように見えます。
※写真左が「西櫓跡」、右が「元西櫓跡」。いずれも西の丸からの眺望。

この西の丸内部に敵が侵入することを防ぐために、曲輪の周囲をぐるっと堀が囲んでいます。
しかもその堀は、畝が残されて掘られています。これが、北条氏の城に特徴的な「障子堀」です。

西の丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置いて、そこから交互に両側の曲輪に向かって畝を出しています。
たしかに、その形状は、障子の桟のよう…。

この障子堀は、大軍が攻めにくい構造となっていて、さらに地質は滑りやすい関東ローム層。
斜面に登ろうとするうちに曲輪から鉄砲掃射を浴びせられる、おそろしい構造となっています。

西の丸の北側、帯曲輪から眺める障子堀も圧巻です。
落とし穴が至る所にある様相…。しかも戦時には、曲輪上部に狙撃兵がいたんだから、たまったもんじゃないですよね。

さらに西櫓の西側には、「西櫓堀」が掘られています。こちらは、「畝堀」と呼ばれる形式。
堀内には、ほぼ9m間隔で八本の畝が堀に直角に敷かれています。畝の傾斜度は50度から60度、堀底から西櫓までの高さは約9m。これは攻め手側はキツい…。

この西堀櫓と美しい富士山のコラボは絶景です…。
山中城は随所に、富士山を望む絶景スポットがあります。折角なら、天気のいい日に訪れたいですね。

■山中城(宗閑寺・出丸)

さらに足を運んで、三の丸跡にある「宗閑寺」へ。
境内には、北条軍の山中城主松田康長、副将の間宮康俊兄弟らと、豊臣軍で山中城攻略の先鋒を勤めた一柳直末の墓碑が並んでいます。

さらに、山中城には、通称「岱崎出丸」(だいさきでまる)と呼ばれる出丸がありました。
秀吉の小田原攻めに備えて、急ぎ増築された曲輪です。

こちらも、土塁や堀で守られ、その造りは堅牢そのもの。曲輪内は、本丸と同様、二段構築で造られています。
櫓跡からは、田方平野を眼下に見渡すことができ、西から攻め寄せる秀吉軍に眼を光らせていたものと推察されます。

なぜ半日で落ちたんだろう…。見れば見るほど、その堅牢な造りに恐れ入ります。
兵力差、戦術差、士気の差、さまざまな要因があったのでしょう。一大要塞として築いた故に、守備する兵が4千人では足りなかったことも要因と言われています。

鉄壁のはずだった山中城は、わずか数時間で陥落しました。
山中城の陥落を受けて、同じく要衝の足柄城も守兵が退去して陥落、周辺の支城や砦も豊臣方の手に落ちます。

こうして、豊臣方の先鋒隊は早くも天正18年(1590)4月3日には小田原に到着しました。
そして、ここから3か月にも及ぶ小田原包囲戦が始まるのです。危うし北条…その命運は

■基本情報

名称:山中城跡公園
所在地:静岡県三島市山中新田410-4
アクセス:JR三島駅からバスに乗り約30分、「山中城跡」バス停下車、徒歩約8分

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