城ぶら「茨木城」!村重驚愕…"下克上"を共に歩んだ右腕・中川清秀の離反

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、城ぶら「茨木城」!村重驚愕…"下克上"を共に歩んだ右腕・中川清秀の離反です。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

荒木村重の「右腕」ともいえる存在…。それが、村重の従兄弟とも言われる中川清秀です。
はじめは共に摂津池田氏に仕えていましたが、村重が主君を追放して池田城を掌握すると、清秀はその最大の協力者として動きました。

元亀2年(1571年)村重と清秀は、幕府の後ろ盾を得ていた摂津守護の和田惟政と戦い、これを打ち破ります(白井河原の戦い)。
この戦いで清秀は、敵将の和田惟政を自ら討ち取るという殊勲を挙げました。その恩賞として、清秀は茨木城の城主となりました。

天正6年(1578年)、村重が織田信長に対して反旗を翻すと、いち早くこれに呼応。あるいは清秀がこれを促したとも言われます。
はじめは意気揚々と信長軍を迎え撃つ構えを見せた清秀でしたが、高槻城主の高山右近が信長に降伏したことで事態が変わります。

これにより最前線に立つ茨木城は窮地に陥ります。軍事的な圧力をかける一方で信長は、清秀に対して調略も仕掛けました。
追い詰められた清秀は、最終的に一族の安泰のために、信長側に寝返ることを決意しました。

長年の盟友・清秀の離反は、村重に戦力以上の打撃を与えました。村重のこもる有岡城は孤立無援…風前の灯となったのです。
なお清秀はその後、信長・秀吉のもとで功績を挙げますが、後に「賤ヶ岳の戦い」で勇烈な最期を遂げました。

■城ぶらり

それでは、荒木村重と共に「下克上」を成し遂げた中川清秀ゆかりの茨木跡をぶら歩きしましょう。

茨木城のはじまりは、建武年間に楠木正成が築城したとする説など様々ありますが、はっきりしていません。
歴史上、その名を現すのは応仁の乱のときで、当時の文献に「摂州茨木之城」という文字が記されています。

長い歴史のある城でしたが、現在の城跡はほとんど宅地化していて、往時を偲ぶ遺構はほとんど残っていません。
それでも、そうした開発をまぬがれ、移築されて現在の残る遺構を、茨木市内にいくつか見ることができます。

その一つが、茨木小学校に立つ「櫓門」(復元)。城跡に建つ茨木小学校の校門付近に、かつての櫓門が復元されています。
大和郡山市の慈光院に移設されていた茨木城櫓門を原寸大の木造瓦葺きで復元したもの。
住宅街に突如として現れる土塀の門は、ここがかつて城域であったことを強く主張しています。子供たちも歴史好きが多いのかしら?

城跡から少し歩いた茨木神社には、茨木城の搦手門を移築したと伝わる門があります。
派手さはありませんが、質実剛健な造りに「戦う城」としての記憶が宿っています。
村重を裏切り生き残りをかけた清秀も、この門をくぐって戦場へ向かったのでしょうか…。

中川清秀が下した決断は、村重にとっては許せない「裏切り」だったかもしれませんが、それは過酷な戦国を生き抜くための「覚悟」でもありました。
いまは宅地化された茨城の町を歩きながら、歴史の非情な決断を迫られた男たちに思いを馳せるのでした…。

今日の夢中は、城ぶら「茨木城」!村重驚愕…"下克上"を共に歩んだ右腕・中川清秀の離反でした。
ありがとう、茨木城! ありがとう、中川清秀! まだまだ荒木村重ゆかりの城をめぐります。

■基本情報

名称:茨木城跡
住所:大阪府茨木市片桐町8
アクセス:阪急「茨木市」駅から徒歩8分

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