平家の栄華を築いた超人・平清盛!京都に残るゆかりの地めぐり

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

今日の夢中は、平安末に絶大な権力を誇った平家の棟梁、平清盛ゆかりの京都史跡へ
「鎌倉殿の13人」ゆかりの地!清盛が平家一門の屋敷群を築いた「六波羅蜜寺」、六波羅と並ぶ平家の一大拠点跡「若一神社」。平清盛を祀る塚や平清盛像もめぐります。

■平清盛

平清盛は、伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平家の棟梁となります。
朝廷から厚い信頼を得て、武士として初めて太政大臣にまで上り詰めた人物です。

その権勢を決定づけたのが、平安時代末期に起きた保元・平治の乱
この戦いで武家のライバル源氏を破り、以後は唯一の武門の棟梁として、絶大な権力を掌握、平家繁栄を築きました。

さらに清盛は、娘徳子を高倉天皇に入内させると、2人の間に皇子が生まれ安徳天皇となります。
清盛は帝の外祖父となり、その地位はますます盤石になった…ように見えました。

「平家にあらずんば人にあらず」。そんな風に驕る平家に対する不満が積み上がっていきます。
その一人、後白河法皇は平家の領地を没収するなど圧力をかけます。これに対し清盛は、法皇を幽閉、反平家の公卿を駆逐するなど、実力行使に出ました。

こうした清盛の専横は、さらなる反平家の不穏分子を生み出します。
その最大のものが、東国で平家打倒の兵を挙げた源頼朝でした。この頼朝はライバル源氏の嫡流。かつて捕らえられて斬首となるところを、清盛が助けて伊豆に配流した男でした。

清盛は激怒します。頼朝らの勢力拡大を防ぐために臨戦体制を整備。
嫡男宗盛らを東国追討に派遣しようとした矢先、原因不明の熱病に冒され倒れます。

武士として初めて太政大臣に就き、武家政権の礎を築いた男、平清盛死去。享年64歳。
その死に際して、「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言したといいます。

■六波羅蜜寺

平安時代末に絶大な権勢を誇った平清盛。
今日は、京都にある清盛ゆかりの地をめぐりましょう。

まずは、「六波羅蜜寺」(ろくはらみつじ)へ。
平安時代中期に空也上人が開いたとされる古刹で、空也の死後、高弟の中信上人が中興し天台別院として栄えました。

平安後期に、平忠盛が当地に軍勢を駐屯させたことから、平家の拠点となります。
やがて境内の隣りには六波羅殿と呼ばれる館が建築され、清盛の代には当寺一帯が平家の屋敷群に取り込まれました。その屋敷の数は当寺内外5,200棟にものぼったのだとか。

境内には、その平清盛を祀る塚があります。
悪役イメージのある清盛ですが、頼朝より先に武家政権の礎を築いた人物。日宋貿易など経済にも明るく、政治力も武力もあって、史実から浮かぶその姿はなんでもできる超人…。

((左)此付近平氏六波羅第跡の石碑、(右)平清盛公の塚)

宝物館には、有名な「平清盛坐像」があります。
超人・平清盛のお姿をひと目見ようと前のめりで臨んだのですが…。訪れた日は休館、東京国立博物館に出展中とのことでした…。

■若一神社

続いて、「若一神社」(にゃくいちじんじゃ)へ。
当寺一帯は、平清盛の別邸「西八条殿」のあった場所。六波羅と並ぶ平家の一大拠点でした。

((左)社殿、(右)平清盛公西八条殿跡の石碑)

この神社は、その別邸内に紀州熊野の若一王子の御霊を勧請したのが始まり。
そうしたところ、たちどころに清盛が太政大臣に任ぜられたことから、開運出世の神として崇められています。

境内には、平清盛像が建っています。石碑に刻まれている「平相国」とは、平家の太政大臣という意味。
まさに栄華をきわめた王者の像。その姿は、武家というより公家ですね…。

この栄華をもたらしたのが、この神社のご利益だったのでしょうか…。
清盛が太政大臣に任ぜられたことを感謝して手植えしたと伝わる大楠があります。この寺のシンボル、御神木ですね。

京都に残る、平家が誇った栄華のあと…。
天下を睥睨した超人・平清盛がこの世を去ると、その栄華も儚く消え去っていきました。

■基本情報

【六波羅蜜寺】
所在地:京都府東山区五条通 大和大路上ル東
アクセス:京阪電車「清水五条」下車・徒歩約8分、市バス「清水道」下車・徒歩約5分
営業時間:8:00~17:00(受付終了16:30)
定休日:無休

【若一神社】
所在地:京都府京都市下京区七条御所ノ内本町98
アクセス:JR京都線「西大路」下車・徒歩5分
営業時間:24時間
定休日:無休

ブログランキングに参加しています

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事