豊臣秀吉没す…一代で栄華を築いた英雄、最後の大舞台「醍醐の花見」

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、豊臣秀吉没す…一代で栄華を築いた英雄、最後の大舞台「醍醐の花見」です。

■家康を辿る物語

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉京都醍醐寺において、大々的に花見の宴を催しました。
その開催にかける秀吉の思い並々ならず、自らが下見に足繁く通い、殿舎の造営や庭園の改修を指示するほどでした。

さらに醍醐山一面を桜で飾るために、近隣諸国から700本もの桜を移植したという、派手好みの秀吉らしい逸話も残ります。
宴が開かれたのは3月15日。花見に招かれたのは北政所や淀殿など1,300人余りの女房衆、男性は秀吉と嫡男・秀頼、盟友・前田利家のみでした。

参加した女性たちは2回の衣装替えが命じられ、その衣装代だけで現在の40億円に相当する金額がかかったそうです。
まさに豪華絢爛な醍醐の花見…。それは、一代で栄華を築いた英雄の最後にふさわしい大舞台となりました。

秀吉はこの花見から約5か月後。慶長3年8月18日に、その生涯を終えました。享年62。死因については諸説あり定かではありません。

■醍醐寺

豊臣秀吉、最後の大舞台「醍醐の花見」。盛大な宴が催された醍醐寺を訪れましょう。
京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山。世界遺産にも認定されています。

総門を通って境内に入ります。総門から仁王門に続く道は「桜の馬場」と呼ばれ、春には両脇を桜が飾ります。
秀吉は、この桜の馬場から槍山に続く350間(約637m)の左右に700本もの桜を植えました。畿内や吉野の桜を移植したそうです。

(左:総門、右:桜の馬場)

秀吉の当時の権勢とこの花見にかける意気込みが伝わってきますね…。
この「醍醐の花見」当時の模様を今に伝えるのが「三宝院」です。醍醐の花見を契機として整備された醍醐寺の塔頭。

(左:唐門、右:三宝院玄関)

目の前に広がる明媚な庭園…その美しさに言葉を失います。秀吉自らが設計したそうです。
さらに醍醐の花見で使用した建物を槍山から移築した「純浄観」や美しい襖絵を堪能できます。

(左:三宝院庭園、右:純浄観)

三宝院エリアから、次は伽藍エリアへ。仁王門をくぐると堂塔の並ぶ伽藍が広がります。
醍醐寺の本堂である金堂は、秀吉の命により紀州和歌山から移築されたもの。秀吉は醍醐の花見を契機に、応仁の乱で荒廃していた同寺の復興を強く進めました。

(左:仁王門、右:金堂)

その金堂の近くには国宝の五重塔が建ちます。なんとも壮観です。
醍醐天皇の菩提を弔うために建てられたもの。天暦5年(951年)創建、京都府下最古の木造建築物です。

(五重塔)

この五重塔のたもとにも桜の木が植えられています。桜の時期はさぞ綺麗なことでしょう…。
慶長3年(1598年)3月に催された醍醐の花見。それは天下人・秀吉の栄華を誇るがごとく絢爛豪華に開催されました。

(三宝院庭園)

それから5か月後、絢爛な桜もときが来れば散るように、一代の英雄もこの世を去りました。
慶長3年8月18日、豊臣秀吉没。享年62。辞世の句は次のとおり。

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」

■基本情報

名称:醍醐寺
住所:京都府京都市伏見区醍醐東大路町22
アクセス:地下鉄東西線醍醐駅から徒歩で10分
営業時間:(拝観)9:00~17:00 ※12月第1日曜~2月は16:00まで

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