こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。今は「鎌倉殿の13人」に夢中…。
今日の夢中は、東国の王者・源頼朝死す…鎌倉「源頼朝の墓」へ。さまざまな説のある頼朝の死因についても掘り下げます。
■頼朝死す
それは、突然訪れました。源頼朝死す…。
最大の敵・平家を滅ぼし、源氏一族のライバルたちを亡き者とし、自身の権威を盤石なものとした源頼朝。
建久3年(1192年)、念願の征夷大将軍に任じられ、名実ともに東国の王者となりました。
晩年は、長女大姫や次女三幡姫の入内政策に奔走しました。
東国の支配を盤石なものとした頼朝は、朝廷との連携によって、さらに西国での権威も得ようとしたのです。
しかし建久9年(1198年)12月、頼朝は相模川で行われた橋供養からの帰路で体調を崩します。
原因は落馬と言われますが、真相は定かではありません。
そして建久10年(1199年)1月、息を引き取りました。享年52歳(満51歳)。
■源頼朝の墓
新しい時代を切り拓いた源頼朝ですが、思いがけず最期のときが訪れました。
建久10年(1199年)1月、源頼朝死去…。享年52才(満51歳)でした。
頼朝は、鎌倉・大倉御所の裏山にある持仏堂(後の法華堂)に葬られました。
ここは頼朝が奥州征伐の際に建立した寺社で、自身の持仏である聖観音像を本尊としています。
残念ながら法華堂は残っていませんが、頼朝の墓所は今も法華堂跡にあります。
その場所は、頼朝をご祭神とする白旗神社のすぐ側、長い石段を登った小高いところ…。
そこに、頼朝の墓塔が建っていました。鎌倉の街を見渡す場所に、頼朝は葬られたんですね…。
現在の墓は、江戸時代に再建されたもの。頼朝の墓所は、後の時代の武士たちからも篤い信仰を集めたそうです。
■頼朝の死因は?
頼朝の死因は何か?
これは、歴史ファンならずとも関心のあるところです。
しかし、これだけ歴史を動かした英雄なのに、なぜかその死については確実な記録が残っていません。
鎌倉時代の公式記録書である「吾妻鏡」は、頼朝の死の前後数年の記録がすっぽり抜けているのです。
その「吾妻鏡」で頼朝の死の記述があらわれるのは、その13年後の建暦2年(1212年)の条です。
そこでようやく読み手は、頼朝が相模川で行われた橋供養からの帰路に落馬して死んだことを知ることができます。
なぜ頼朝は落馬したのか?そもそも武人たる頼朝が、戦場でもない平坦地で馬から転げ落ちることなどあるのでしょうか…。
当然のようにそのような疑問が生じ、頼朝の死因についてはさまざまな説がささやかれています。
たとえば、彼が滅ぼした源氏や平家の怨霊説や、北条氏による陰謀説、さらには政子の嫉妬説まで…。
確実な記録がない以上、どんな説も否定できないのですが、やはりどれもこれも無理があるというのが実情でしょう。
結論、真相は闇の中なのですが、それだとあんまりなので、ここでは、館長ふゆきが敬愛する永井路子さんの説を紹介します。
永井さんは、「炎環」「北条政子」などの作品で知られる作家にして、「吾妻鏡」を何度も何度も読んだという強者、鎌倉時代の第一人者です。
頼朝の死因については、「続悪霊列伝」などに永井さんの考えが記されています。
曰く、「平凡なようだが、頼朝の死は、やっぱり、落馬の後の病死、と考えた方がいい」。
さらに続けます。「ただ、これを落馬による外傷とするか、落馬じたいを、急性疾息と見るかは議論の余地がある」。
永井さん自身は、落馬からその死まで約2週間の間隔があることから、怪我ではなく内発的な発病と見た方がいいという見解を示しています。
なるほど…。確かに、このとき頼朝は52歳。高血圧などにかかりやすい年齢であり、旧暦の12月は1年の中でも最も寒い季節です。
「その日一日、寒風に吹きさらされた彼が、その帰途に発作を起こしたと考えても不自然はない」。
ありがとう、永井さん。確かに、怨霊説や嫉妬説などに比べて、ずっと納得できます。
かくして、東国の王者、源頼朝はこの世を去りました。死因は後に様々な憶測を呼びますが、頼朝の死は間違いのない事実として、その後の鎌倉に大きな影響を及ぼしました。
頼朝という柱石を失った幕府は、程なくして、現世の怨霊さながら、陰謀、嫉妬がうずまき血で血を洗う内部抗争を繰り広げていくことになるです…。
■基本情報
名称:源頼朝の墓
所在地:神奈川県鎌倉市西御門2丁目5
アクセス:JR鎌倉駅から徒歩15分