源平最後の戦い「壇ノ浦古戦場跡」!宿命の対決の果てに…

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

今日の夢中は、源氏対平家、宿命の対決の最終決戦「壇ノ浦古戦場跡」(山口県下関市)です。
「鎌倉殿の13人」ゆかりの地!源義経と平知盛の両者が対峙する像は迫力満点。壇ノ浦を見渡す「火の山ロープウェイ」や、安徳帝と平家一門を祀る「赤間神宮」もめぐります。

■壇ノ浦の戦い

寿永2年(1183年)、源義仲に攻められた平家は、安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ちます
その後、義仲と源頼朝の対立に乗じて兵を立て直しますが、勢いに乗る鎌倉勢を押し戻すことはできませんでした。

平家軍は、一ノ谷の戦い、屋島の戦いと、相次いで源範頼率いる鎌倉源氏軍に敗北
これらの戦いでは、源義経が天才的な軍略を発揮して、その勝利に貢献しました。

瀬戸内海を転々と逃れた平家軍は、ついに本州最西端の長門国彦島に拠ります。
追う源氏軍は、範頼が九州に渡り平家の背後を遮断、義経は西国の水軍を味方につけ決戦に臨みました。

寿永4年/元暦2年(1185年)3月、ついに戦いの火ぶたが切って落とされます。決戦の地は、関門海峡の一角「壇ノ浦」
戦いは当初、水軍の運用に長けた平家軍が、関門海峡の早い潮の流れに乗った攻撃で、海戦に慣れていない源氏軍を圧倒します。

しかし時が経つと潮の流れが反転。これに乗じて義経軍が猛攻撃を仕掛けると、平家軍は総崩れとなりました。
敗北を悟った平家一門の武将や女性たちは、次々と海に身を投じて自害。8歳の安徳天皇も二位尼(平清盛の正室・時子)とともに海に沈みました。

■壇ノ浦古戦場跡

源氏対平家、最後の戦いの地「壇ノ浦」は、現在の山口県下関市にあります。
関門海峡を望む場所「みもすそ川公園」内。そこに「壇ノ浦古戦場跡」碑がありました。

寿永4年/元暦2年(1185)3月24日、源平最後の決戦がここで繰り広げられました。
源氏の水軍を率いたのは源義経。平家の水軍を率いたのが平知盛です。

両者が対峙する像は迫力満点…。義経は、船から船に飛び移ったという「八艘飛び」の姿です。
知盛は、それと対峙するように碇を振り上げる姿。知盛は碇を担いで入水自害したと伝わります。

近くの「火の山ロープウェイ」で、標高268mの「火の山公園」へ。
そこにある展望台から、壇ノ浦の全景を見渡せます。

ここから見ると、海峡が狭いのがよく分かります。これだと、海に身を投げても陸地まで泳げちゃいそう…。
実際に、平家の総大将・平宗盛(知盛の兄)は、入水したものの死にきれず、泳いでいたところを捕まって捕虜になりました(後に斬首)。

■平家滅亡

壇ノ浦古戦場跡には、「安徳帝御入水之処」碑もあります。
安徳天皇は、平清盛の娘徳子(建礼門院)と高倉天皇の皇子。壇ノ浦の戦いのときは齢8歳でした。

幼い帝は、死を覚悟した祖母の二位尼に抱かれると、「どこに連れて行くの?」と問いました。
二位尼は「極楽浄土に参りましょう。波の下にも都がありますよ」と答え、ともに海に身を投じたと伝えられます。

その安徳天皇を祀る神社が、古戦場跡からほど近くにある「赤間神宮」です。
龍宮城のような外観は、幼い帝が波の下にも都があると信じて入水したことにちなんで造られたのだとか…。

境内には、その幼い帝の御陵墓「安徳天皇阿弥陀寺御陵」があります。
また、その御陵墓を守るように、平家一門の墓 「七盛塚」(ななもりづか)があります。壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門14人の武将の供養塔が並んでいました…。

いつの世も戦争は、明るい物語よりも悲しい物語を生み出します…。
壇ノ浦の戦いにより、絶大な権勢を誇った平家は滅亡。一方、勝者の源氏も、飽くことなき権力争いの果てに、幾章もの悲しい物語を紡ぎ出すことになるのです…。

※壇ノ浦の戦いは、史書「吾妻鏡」に具体的な経過の記載がなく、実情は不明なままです。

■基本情報

名称:壇ノ浦古戦場跡
所在地:山口県下関市みもすそ川町21−1番
アクセス:平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線「関門海峡めかり駅」下車 徒歩14分

ブログランキングに参加しています

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事