城ぶら「亥鼻城」!頼朝再起を援けた千葉常胤、鎌倉殿へ繋ぐ鏑矢

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、源頼朝の復活を支援した千葉一族飛躍の城「亥鼻城」(千葉城)です。
「鎌倉殿の13人」ゆかりの地!勇壮に弓を引く「千葉常胤の像」、「亥鼻城址」の石碑、天守風の郷土資料館などをめぐります。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

亥鼻城(いのはなじょう)は、平安時代末の大治元年(1126)に千葉常重が築城したとされます。
千葉氏は桓武平氏の血を継ぐ名門で、常重のときに上総国大椎から千葉に本拠を移しました。

この千葉氏に隆盛をもたらしたのが、その息子・千葉常胤(ちばつねたね)です。
常胤は、保元元年(1156)の保元の乱に出陣、源義朝指揮下で戦ったことから源氏と強い関係を築きました。

治承4年(1180)、源義朝の子・頼朝が伊豆国で挙兵するとこれを支持。
頼朝が石橋山の戦いに敗れて安房に逃れてくると、いち早く頼朝のもとに参陣。頼朝から「父と思う」という賛辞を与えられます。
常胤は、頼朝に鎌倉に本拠を置くことを勧めるなど、鎌倉幕府創設に大きく貢献しました。

しかし、室町戦国時代に入り関東に騒乱が起ると、千葉氏も内紛がぼっ発します。
康正元年(1455)、千葉氏16代当主・胤直は一族の馬加康胤と原胤房に急襲され、亥鼻城を追われました。

この内紛により胤直は自刃、常胤が全盛を築いた千葉氏宗家は滅亡します。
この後、下総千葉氏を継いだ千葉輔胤(馬加康胤の子)は本拠を本佐倉城に移し、亥鼻城は廃城となりました。

城跡は現在、亥鼻公園として整備され開放されています。
昭和42年(1967)には、千葉市立郷土博物館(模擬天守)が造営されました。

■城ぶらり

それでは、頼朝復活の立役者・千葉氏の居城、「亥鼻城」をぶら歩きしましょう。

JR本千葉駅から歩いて、「千葉城」とも呼ばれている亥鼻城へ向かいます。
石段を登ると、目の前に白亜の天守がそびえ立っていました…。

実はこちらは、天守風の郷土資料館。復元天守ではありません。
でも、その勇壮な姿は、もはや千葉のシンボルと言っても過言ではありません。美しいですね…。

その天守風の建物の前に、こちらもまた勇壮に弓を引く武将の姿
この武将こそ、千葉氏中興の祖、鎌倉幕府創設に尽力した千葉常胤の像です。大空に鏑矢を放とうとする姿は、新たな武家社会を築こうとする強い意志を表しているよう…。

なお、郷土資料館の中にも、千葉常胤の彫像が展示されていました。こちらは壮年の常胤。頼朝に「父」と呼ばれた風格が伝わります。
さらに、千葉氏の歴史や武具の展示など盛り沢山。源頼朝を千葉一族が出迎えた「君待橋」の絵など「鎌倉殿」関連の展示も多く、あっという間に時間が過ぎていきます。

この郷土資料館の向かい側、広場になっているところが、主郭(本丸)とされる場所です。
周囲が少し高くなっているのは土塁の跡。敵の攻撃に備えた造りと考えられます。

その北側にある神明社のあたりは、物見台があった郭と言われています。
かつては東京湾の海岸線や足元に千葉の港を一望できたのだとか。今は開発されてビルが建ち並んでいます。「亥鼻城址」の石碑が境内に建っていました。

いまの千葉市の礎を築いた千葉一族の居城にふさわしい城址です。
…が、これまでの亥鼻城跡の発掘調査では鎌倉時代の城や館の跡は見つかっていません。ここにあった城は、戦国時代に千葉氏の有力家臣・原氏により整備されたという説が有力です。

では、千葉氏が館としていた場所はどこか?
かつて方形の堀や土塁に囲まれて「御殿跡」と呼ばれていた現千葉地方裁判所にあたりという説がありますが、それらを示す遺構もなく詳細は不明です。

■基本情報

名称:亥鼻城(いのはなじょう)
所在地:千葉県千葉市中央区亥鼻
アクセス:JR本千葉駅から徒歩10分、千葉都市モノレール「県庁前」駅から徒歩5分

ブログランキングに参加しています

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事