鎌倉殿の証し!源氏棟梁の髑髏(どくろ)は実在した?鎌倉「勝長寿院跡」へ

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、鎌倉殿の証し!源氏棟梁の髑髏(どくろ)は実在した?鎌倉「勝長寿院跡」へ…です。

■源氏棟梁の髑髏(どくろ)

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、物語の重要な鍵を握った髑髏(どくろ)…。
それは源頼朝の決起を促し、源実朝に覚悟を与え、そして公暁のもとへと渡りました。

さすがは三谷幸喜さん、面白い演出だなと思いましたが、実はあながち作り話ではありません。
実は、ドラマにも登場した源義朝(頼朝の父)の髑髏が埋葬された場所が鎌倉にあるのです。今日は、その場所を訪れましょう。

…と、その前に、ドラマを見ていない人は「なんのこっちゃ」と思うでしょうから、少し前置きしておきましょう。
ドラマでは、文覚という謎の僧(演:市川猿之助)が、頼朝の父・義朝のものだという髑髏を掲げ、頼朝に平家打倒の挙兵を促します。義朝は平家に敗れ非業の死を遂げていました…。

このエピソードは、平家物語の逸話をもとにしています。同物語に、文覚が白い布に包んだ義朝の髑髏を取り出すシーンが描かれてるんですね。
でも、同じく同物語では、文覚が海の嵐も鎮める法力を持つ超人として描かれてるので、あまり信頼をおけるものではありません。

実際に、ドラマではその髑髏は偽物でした…。しかし、頼朝はそうと知りつつ、その髑髏を掲げて挙兵を決断しました。
「どこの誰かは存ぜぬがこの生命、お主に賭けよう」。ここから、鎌倉殿の道は開いたのでした。

■勝長寿院跡

さて、史実ではどうだったのでしょうか。
実は、鎌倉幕府が編纂した歴史書「吾妻鏡」などに、源義朝の首に関する記載があります。

それによると、平家討伐の目途もたった元暦元年(1184年)、頼朝は父義朝の菩提を弔うための寺の建立をはじめます。
これと並行して、頼朝は後白河上皇に依頼して源義朝の首を探し出すと、勅使により義朝と近臣・鎌田正清の首が鎌倉に届けられました。

頼朝はこれを受け取ると、わずかの源氏一門とともに文治元年(1185年)9月、南御堂の地に埋葬しました。
同年10月に堂舎が完成し、盛大に落慶供養が行われました。これが「勝長寿院」です。

鎌倉時代には、鶴岡八幡宮、永福寺と並ぶ3大寺社の一つに数えられました。
当地に「大御堂」という地名が残っている通り、勝長寿院は大規模な寺社であったと思われます。

現在は周辺の宅地化が進んだため、当時の寺跡を知れるものは一切ありません
わずかに、ここに勝長寿院があったことを示す「勝長寿院旧蹟」の石碑があるのみ。

(勝長寿院旧蹟を記す石碑)

その石碑の隣りに、ひっそりと2基の五輪塔が建っています。
これが、源義朝の供養塔(左)鎌田政清の供養塔(右)です。この下に、その首が埋葬されているのでしょうか…。

なお、この勝長寿院は、源氏の菩提寺の性格も色濃く、重要な歴史の場面を刻みました。
文治2年(1186年)には、病気療養のため当寺に参籠していた大姫(頼朝の娘)に、静御前が舞を披露したと伝わります。

また、三代将軍実朝が暗殺されたときは、その胴体と髪が勝長寿院に葬られたとされます。
母・政子によって法華堂が建てられたとありますが、残念ながらその跡は残っていません。その政子も晩年を当地で過ごし、68歳で生涯を閉じました。


源氏棟梁の髑髏は存在しました…。少なくとも史書にはそう記されています。
頼朝は、父義朝の首を埋葬した翌年に、平家を滅亡に追いやっています。その意味では、鎌倉殿が飛躍するきっかけをつくったのが、この髑髏…そして勝長寿院だったのかもしれません。

■基本情報

名称:勝長寿院跡
所在地:神奈川県鎌倉市雪ノ下4丁目6−20
アクセス:JR鎌倉駅から徒歩20分

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