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館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、われて砕けて裂けて散るかも…三代将軍源実朝ゆかりの鎌倉歌碑めぐりです。
■歌人将軍・源実朝
源実朝(みなもとさねとも)。幼名は千幡。
源頼朝と北条政子の次男として生まれ、政子の妹・阿波局を乳母として傅育されました。
建仁3年(1203)、北条氏によって兄頼家が将軍職を追われると(翌年暗殺)、その後を継ぎ12歳で鎌倉幕府3代将軍に就きました。
このとき元服に際して、京の後鳥羽上皇から「実朝」の名をくだされています。
将軍とはなったものの、政治の実権は執権・北条氏が握ったため、実朝の関心は主に文化面へと向かいました。
もともと繊細な性格であったのでしょう。京都の貴族文化や文学を愛し、特に和歌に強い関心を示しました。
後鳥羽が勅撰した「新古今和歌集」を読み込み、歌人の藤原定家に教えを請い、自らも作歌に励みました。
実朝は和歌に対して天性の才能を持っていました。いくつもの名歌を遺し、小倉百人一首に選ばれる歌もあるほど。その作品は歌集「金槐和歌集」として今に伝えられます。
そのまま歌人として生涯を送れたなら、もっと多くの優れた和歌を遺せたことでしょう…。
しかし現実は、繊細な歌人将軍にはあまりにも苛烈な鎌倉の風が、彼を巻き込み吹きすさんでいくのです…。
■鎌倉歌碑めぐり
今日は、3代鎌倉殿・源実朝ゆかりの鎌倉へ…。
実朝が詠んだ和歌を刻む歌碑のある場所をめぐりましょう。
まずは、由比ガ浜に面する鎌倉海浜公園(坂ノ下地区)へ。そこに、小倉百人一首にも選ばれている実朝の名歌を刻む歌碑があります。そこに刻まれているのは次の歌です。
世の中は つねにもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも
実朝は、鎌倉の海辺で見た漁師たちの光景に心惹かれ、この歌を詠んだと言われます。
世の中がいつまでもこんな風に変わらないでいてほしい…渚を漕いでゆく小舟の漁師たちの姿がいとおしい…。現代語訳すると、そんな意味です。
「もがも」は、難しいことが叶ってほしいという、願望の終助詞。心やさしい実朝の心情がよく伝わる歌ですよね。大海のなか小舟を漕ぐ漁師に自分の姿を重ね合わせたのかもしれません。
続いて、鎌倉文学館へ。正門入口からほど近くのトンネル脇…そこに建つ灯柱に、こんな歌が刻まれています。
大海の 磯もとどろに よする波 われてくだけて さけて散るかも
磯も轟くほどに寄せる大海の波は、割れて砕けて、裂けて散っていく…。
荒れる海の風景をそのまま歌にしていますが、なんて心揺さぶる言質・音質でしょうか。
磯にぶつかり砕け散る波に寄せて、実朝の孤独感や悲しみ、叫びが伝わって来るようです…。誰か、実朝を助けてあげて…。
■鎌倉歌碑めぐり(続)
鎌倉商工会議所にも、実朝の歌碑があります。刻まれている歌は次の歌。
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ
険しい箱根路を超えると、目の前に伊豆の海が広がった…沖の小島に白波が寄せているのが見えるよ…。
実朝の少年のような感動が伝わる歌です。建暦3年(1213)正月、箱根権現参拝を終えて、伊豆に下って来るときに詠んだ歌とされます。実朝は純粋無垢な心を持った将軍だったのでしょう。
そして、鶴岡八幡宮の近くの鎌倉国宝館へ。こちらには2つの歌碑があります。
一つ目は、鎌倉国宝館の右側、「実朝桜」が植えられている箇所の標柱に次の歌が刻まれています。
風騒ぐをちの外山に雲晴れて桜にくもる春の夜の月
「をち」は「遠く」の意味。風が吹いて、遠くの山の雲が晴れたよ…でも春の夜の月は桜でくもってるんだ…。
なんて素敵な歌でしょうか…。春の桜の風景が目に浮かぶようです。歌碑のある「実朝桜」は、彼の首塚のある秦野市から移植されたものだとか。そう、彼には悲しい運命が待っているのです…。
もう一つの歌碑は、鎌倉国宝館正面玄関入口に建っています。刻まれている歌は次の通り。
山はさけうみはあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
山が裂けて海が干上がるようなことになっても、私の君に対する忠誠心が変わることは決してありません。
ここで詠まれている「君」とは後鳥羽上皇です。実朝は、京都と鎌倉の関係悪化を思い悩んでいたのでしょうか…。
実朝の京都朝廷に対する思いは、この歌の通りであったのでしょう。
実朝は、成人するにつれて親裁を行うようになります。もしかしたら、自身の手で京都と鎌倉の衝突を防ごうとしたのかもしれませんね…。
ただ、その思いに反する事態が起きることになるのです。
それは、とある雪の降る日に起きた悲劇が発端となりました。その悲しい事件については、また先の「夢中図書館」にて綴ることとしましょう…。
■基本情報
【源実朝鎌倉歌碑めぐり】