城ぶら「尼崎城」!下克上の雄から逃亡者へ…荒木村重再起の地に待っていた悲劇とは

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、城ぶら「尼崎城」!下克上の雄から逃亡者へ…荒木村重再起の地に待っていた悲劇とは…です。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

天正7年(1579年)夏、有岡城の包囲は10ヶ月を超えていました。
頼みにしていた毛利軍の援軍は来ず、石山本願寺からの兵糧補給路も信長軍によって完全に遮断…。
信頼していた高山右近や中川清秀の離反に加え、城内でも兵士の逃亡が相次ぎ、村重は窮地に追い込まれました。

同年9月2日深夜、事態を打開するために、村重はわずか5、6名の側近を連れ、密かに有岡城を脱出します。
向かったのは、嫡男・村次がいる尼崎城でした。敵前逃亡のそしりもある村重の行動ですが、村重自ら安芸に出向き毛利氏と交渉しようとしたという説もあります。

村重の脱出は伏せられていましたが、間者によって織田信長の知るところになります。
信長軍の総攻撃が開始されると、主のいない有岡城はまもなく陥落。信長は、城内にいた村重の妻子らを人質にとって、尼崎城に入った村重に圧力をかけます。

いわく「尼崎城と花隈城を明け渡せば、有岡に残した妻子や家臣の命を助ける」。
しかし村重はこれを拒否。徹底抗戦の構えを見せました。この頑なな態度が、信長に「荒木一族の根絶やし」を決意させてしまいます。

信長は、捕らえた荒木一族を京都と尼崎に送り、見せしめとして凄惨な処刑を断行しました。 村重の愛妻・だしを含む一族と重臣は京都・六条河原にて斬首。家臣の妻子らは尼崎城の近くで処刑・殺害されました。その惨状は、「信長公記」も言葉を失うほど…。
有岡城の落城に伴う処刑者は、下級武士の家族らも含め約670名に達したと言われ、村重の反乱への報復がいかに苛烈であったかを物語っています。

■城ぶらり

それでは、有岡城を脱出した荒木村重が再起をかけて逃げ込んだ尼崎城跡をぶら歩きしましょう。

尼崎城址は現在、「尼崎城址公園」として整備され一般に開放されています。
城自体は明治時代に廃城になりましたが、市民らの再建を望む声を受けて復興が進められ、2019年に民間の寄付によって天守が再建されました。

その見どころは、何と言っても、城に近づくと目に飛び込んでくる、青空に映える真っ白な天守閣です。
こちらは、江戸時代に城主を務めた戸田氏が建設したとされる天守を、当時の図面をもとに忠実の再現したもの。圧巻です。

尼崎城天守の2階「VRシアター」では、幅約10mにもなる巨大画面で、江戸時代の尼崎城や城下町の賑わいぶりを楽しめます。
また3階「なりきり体験スペース」では、忍者や武士、お姫様の衣装を無料で体験できます。家族ぐるみで楽しむ場所になっています。

ちなみに、尼崎城の年表には元和3年(1617年)、戸田氏鉄が入封したことが始まりとされています。
残念ながら、荒木村重に関する記述はありません。たしかに、村重が逃げ込んだ尼崎城(大物城)は、現在の尼崎城址よりも北東側にあったと考えられますが…。

ただ、それも仕方ないと思えるほど、荒木村重のエピソードは、今の家族ぐるみで楽しめる尼崎城には相応しくないほど凄惨でした。
「下克上の雄」から「逃亡者」へ…。荒木村重という一人の人間が歩んだ壮絶な人生の一コマが、ここ尼崎には残っているのです。

今日の夢中は、城ぶら「尼崎城」!下克上の雄から逃亡者へ…荒木村重再起の地に待っていた悲劇とは…でした。
ありがとう、尼崎城! 次回も、荒木村重の逃亡劇の続きを追いかけます。

■基本情報

名称:尼崎城址
住所:兵庫県尼崎市北城内27番地
アクセス:阪神「尼崎駅」下車、徒歩約5分
開城時間:10:00〜17:00(最終入城16:30)

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