小田原合戦の発火点「名胡桃城」!連郭式山城、馬出、智将・真田昌幸の仕掛けとは?

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、小田原合戦の発火点「名胡桃城」!連郭式山城、馬出、智将・真田昌幸の仕掛けとは?です。

■家康を辿る物語

徳川家康を臣従させ、権勢を揺るぎないものとした豊臣秀吉
天正16年(1588)4月、後陽成天皇を聚楽第に招き、全国の諸大名にも列席を命じました。

この聚楽第行幸に北条氏政・氏直父子も列席を求められましたが、氏政はこれを拒否
一時は家康の執り成しにより事なきをえますが、秀吉は北条征伐の機会を窺うことになります。

そんなとき、秀吉に格好の北条征伐の口実を与える事件が勃発しました。
天正17年(1589)10月、北条麾下の沼田城主・猪俣邦憲が、真田領の名胡桃城を奪い取ってしまったのです。

これは、秀吉が発した大名同士の私闘禁止を命じる惣無事令に背く行為でした。
この名胡桃城事件を受けて、秀吉は北条氏に宣戦布告の書状を発布。全国の大名にも書状を発し、北条・小田原征伐を決定しました。

■名胡桃城

秀吉による小田原征伐のきっかけとなった城「名胡桃城」(なぐるみじょう)へ。
場所は、現在の群馬県みなかみ町。名胡桃平とよばれる河岸段丘面の一角に立地しています。

戦国時代、真田昌幸が沼田城攻略のための前線基地として、当地に名胡桃城を築きました。
そのとき沼田領をめぐって争ったのが北条氏…。真田にとっても北条にとっても譲れない因縁の地でした。

智将といわれる真田昌幸が、崖の連なる天然の地形を活かして築城した戦うための城
三郭から二郭、本郭など主要部を直につなげた連郭式の縄張り構造の山城で、さらに三郭の外に馬出がつくられています。

馬出とは、城の出入り口の外側に堀や土塁で作った防御・攻撃施設です。
「出丸」(でまる)とも呼ばれ、大阪城に昌幸の息子・幸村が築いた「真田丸」が有名です。

この馬出で守られる郭群、最初の郭が「三郭」(さんのくるわ)です。東西に長く伸びた郭で、外郭との間には堀切が設けられています。
発掘調査によって、郭内に三日月型の堀が発見されており、築城当初ここは三郭でなく馬出があったと考えられます。

さらに進むと、次の郭「二郭」(にのくるわ)があります。三郭と二郭の間には深い堀切があり、敵の侵入を防ぐ構造となっています。
二郭は四方を土塁で囲っていたと考えられます。二郭内には、8棟の堀立柱建物の跡が見つかっています。城を守る兵らが詰めていたのでしょう。

続いて、さらにその奥にある「本郭」(ほんくるわ)へ。二郭と本郭の間にも深い堀切、そして本郭の土塁には乱石積みの石垣を見ることができます。
本郭はいま、長さ約51m幅約30mの洋梨型をしていますが、両側の崖面が大きく崩落していることから、当時はもっと広かったと考えられます。

連郭方式の郭の最奥部に位置するのが「ささ郭」(ささくるわ)です。本丸の背後を守る役目も負っていたと思われます。
他の郭に比べると小さめの郭で、その先端部には袖郭と物見が続いて沼田城方面を望めます。狼煙などでやり取りとていたのかもしれません。

さすがは、智将・真田昌幸が築いた前線基地。さまざまな防備の仕掛けが施されており、この城を落とすことは容易ではありません。
そんな堅城を、北条配下の猪俣邦憲が、名胡桃城の内通者の手引きにより奪い取ってしまいました。

そのときは丁度、秀吉による大名間の私闘を禁ずる惣無事令が出されたばかり…。
この名胡桃城事件は格好の餌食になるような形で、秀吉に北条討伐の行状を与えたのでした。

北条氏や猪俣邦憲の浅慮が招いた結果とされる名胡桃城事件ですが、実は真田昌幸が仕掛くんだ罠だったとも、その裏に秀吉がいたとも言われています。
真相は歴史の闇のなかです。いずれにしても、戦いの火ぶたは切られました。豊臣対北条の決戦の行方はいかに?続きはまた、当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」で綴っていきます。

■基本情報

名称:名胡桃城
所在地:群馬県利根郡みなかみ町大字下津3437
アクセス:関越自動車道「月夜野IC」から約5分、JR上越新幹線「上毛高原駅」からタクシーで約6~8分
営業時間:(名胡桃城跡案内所)9:00~16:00
料金:入場無料

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