こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、家康を辿る城旅「吉田城」!東三河の堅城を落とせ…家康、悲願の三河平定へ…です。
■家康を辿る物語
三河一向一揆を鎮圧して、西三河の支配権を確立した松平家康。
いよいよ軍を東に進めて、東三河の今川勢の一掃を図ります。
東三河の戸田氏や西郷氏などの土豪を抱き込みながら、軍勢を東へ進め今川方勢力を排除していきました。
永禄8年(1565年)家康は、今川方の東三河における最重要拠点である吉田城を攻めます。
力攻めが難しいと判断した家康は、周囲に砦を築き補給を遮断、兵糧攻めを行います。
籠城すること9か月、ついに城主・小原鎮実は松平軍の和議案を受け容れ、開城退去しました。
これにより田原城や御油城も落城、牛久保城の牧野氏などの諸氏も降参したため、今川氏の三河拠点は消失しました。家康はついに三河を平定したのです。
■吉田城 三の丸~二の丸
家康を辿る城旅…。今日は、三河統一をめざす家康が攻防を繰り広げた「吉田城」を訪れます。
吉田城は、築城当初は今橋城と呼ばれ、三河国今橋にありました。
場所は現在の愛知県豊橋市にあたり、城跡はいま豊橋公園として整備されています。
公園の南側入口は、かつての吉田城の三の丸口に当たります。
その三の丸口門跡の右側、石垣のなかに組み込まれた巨石…圧巻です。
(左:三の丸口門跡、右:三の丸口の巨石)
公園内には、一般のひとは気にしないけど、城好きのひとはときめく城の遺構が残っています。
それが二の丸櫓跡。残念ながら櫓は残っていませんが、その名残りであろう堤土塁が残っています。かつてはこの前に堀が築かれ、三の丸と二の丸を隔てていたと思われます。
(左:二の丸着到櫓跡、右:二の丸評定櫓跡)
さらに進むと、広々とした平地が広がります。ここが、かつての二の丸曲輪跡。
「二の丸御殿跡」と刻まれた石碑がちょこんと建っていて、ここに御殿があったことが分かります。
(二の丸御殿跡)
■吉田城 本丸
さらに歩みを進めていくと、目の前に立派な野面積みの石垣が広がりました。
これは石垣ファンにはたまりませんね…。この石垣で守られた曲輪がかつての吉田城の本丸です。
(本丸石垣)
さらにここには、空堀ファンにもたまらない遺構が残っていました。
かつて二の丸と本丸の間に築かれていた堀跡。当時は水も張られていたのかな…。さすがは今川氏が三河支配の拠点とした城…。堅城であったことが偲ばれます。
(本丸堀跡)
そして本丸跡にふみ入れると、ドーンとそびえる白亜の建物。本丸の西北に建つ鉄櫓(くろがねやぐら)です。
かつて本丸には4基の隅櫓があったとされ、中でも鉄櫓が最大で天守相当の櫓だったと考えられます。現在の櫓は昭和29年に復興されたものです。
(本丸鉄櫓)
立派な櫓ですね…。本丸の北側には豊川が流れ、天然の堀を形成しています。
鉄櫓は豊川方からの攻撃に備えたのでしょう。北側から見ると、断崖に建てられた城のように見えます。ほんと堅牢ですね…。
(左:白の北側を流れる豊川、右:北側から見る鉄櫓)
しかし、時の勢いは、守る今川軍よりも攻める松平家康軍に味方しました。
家康は周囲の砦を落とし城を包囲すると、今川方の城主・小原鎮実は和議案を受け容れ、開城退去しました。
これにより、家康は今川方の三河における最大拠点を攻略。三河平定につなげました。
なお、家康は吉田城の城主に家臣の酒井忠次を任命し、吉田城を中心に東三河の豪族を統率させました。
酒井忠次は、徳川四天王の一人に数えられる重臣。大河ドラマ「どうする家康」では大森南朋さんが演じていますね。
家康もこの城を東三河の重要拠点とみなしていたのでしょう。そして家康の眼はさらに東へ、今川方の領土を窺うことになるです。
■基本情報
名称:吉田城
住所:愛知県豊橋市今橋町3
アクセス:市電「市役所前」または「豊橋公園前」下車、徒歩3分