
こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、城ぶら「茨木城」!秀吉恩顧の重臣・片桐且元失脚…大坂城を追われ茨木城へ退去…です。

■家康を辿る物語
方広寺の鐘銘に端を発した徳川・豊臣の諍いは、やがてその火を広げていきます。
この事態を収拾するために奔走したのが、秀吉時代から長く豊臣家に仕えてきた片桐且元でした。
且元は豊臣家の家老でありながら、幕府から加増を受けるなど家康とも非常に近しい立場でした。
その且元が釈明のために駿府を訪れますが、何日たっても家康には面会できません。ところが、すぐ後に駿府を訪れた淀殿の乳母・大蔵卿には家康はすんなり面会し丁寧に接しました。
結局、且元が持ち帰った和解案は、「秀頼を江戸に参勤させる」「淀殿を人質として江戸に置く」「秀頼が国替えに応じ大坂城を退去する」の3案でした。
ちなみにこれは、徳川方の強硬な姿勢を見て取った且元が、戦を避けるために自身で提案したという説もあります。しかし、秀頼や淀殿はこれを全て拒絶しました。
それどころか、且元は徳川方にすり寄った和解案を持ち帰ったことで、家康への内通を疑われ、暗殺計画まで持ち上がります。
こうした事態を受けて秀頼は、且元の執政の任を解き、大坂城からの退去を命じます。且元は一族や配下の兵を率いて、居城の茨木城に退去しました。
徳川家との交渉を担っていた且元が罷免に追い込まれたことに、家康は激怒。一気に緊張関係が高まります。
豊臣家も全国の大名や浪人に、大坂城に集結するよう強く呼びかけました。こうして、両者はついに大阪の陣へと突入することになるのです。
■茨木城
片桐且元(かたぎりかつもと)。秀吉を支えた「賤ヶ岳の七本槍」の一人です。
秀吉没後は、その子秀頼の後見として、弱体化した豊臣家と徳川家の仲介に奔走、豊臣家の存続に尽力しました。
その且元が失脚…。家康への内通を疑われ、大阪城内で暗殺計画まで待ちあがります。
城内で孤立した且元は、秀頼から大坂城退去を命じられ、弟の貞隆らとともに居城の茨木城へ退去しました。
茨木城は、関ヶ原合戦の翌年(1601年)に、片桐且元・貞隆兄弟が城主に任じられました。
ただ、且元は秀頼の後見として大坂城に詰めていたため、実質的には貞隆が城主であったと考えられています。
現在、城跡はほとんど宅地化していて、いまの町並みから往時をしのぶことはできません。
ただ、本丸があったとされる辺りには、いまも「片桐町」という地名が残っています。胸アツですね…。


その片桐町にある茨木小学校に、茨木城の櫓門が復元されています。
案内文によると、大和郡山市の慈光院に移設されていた茨木城櫓門を原寸大の木造瓦葺きで復元したものとのこと。
茨木城は大坂の陣の後、1616年に廃城になっているので、移設された門は片桐氏時代のものと考えられます。


そこから少し南側の茨木神社にも、移設されたとされる搦手門が残っています。
こちらも片桐氏時代のものと推定され、もしかしたら且元が通ったかと思うと、且元ファンにはたまらない遺構ですね…。


しかし、大坂城を追われた且元が茨木城の門を通ったときは、失意の思いで一杯だったでしょう…。
片桐且元の大坂城退去を聞いた家康は激怒。同日に、大坂城攻めの出陣を決定したといわれます。
ついに始まる大坂の陣…。果たして戦いの行方は?続きはまた、当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」にて綴ってまいります。
■基本情報
名称:茨木城跡
住所:大阪府茨木市片桐町8
アクセス:阪急「茨木市」駅から徒歩8分