若き家康を苦しめた「三河一向一揆」!"三河三ヶ寺"本證寺・上宮寺・勝鬘寺をめぐる

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、若き家康を苦しめた「三河一向一揆」!"三河三ヶ寺"本證寺・上宮寺・勝鬘寺をめぐる…です。

(本證寺)

■家康を辿る物語

今川氏から独立し、織田氏と同盟を結んだ松平元康
永禄6年(1563年)には、今川義元からの偏諱である「元」の字を返上して、元康から家康と名を改めました

こうして、いよいよ三河平定に乗り出した家康ですが、足元で思わぬ叛乱が起きます。
永禄6年(1563年)に勃発した「三河一向一揆」がそれです。

家康の家臣が一向宗寺院から兵糧を強引に徴収したことから対立が激化、一向宗門徒の蜂起にいたったとされます。
家康の家臣団のなかにも門徒が多く、それらが一揆側についたことから、西三河を二分する大きな争いに発展しました。

家康も銃弾2発を受けるなど苦戦しますが、翌永禄7年(1564年)2月に鎮圧。
同時期に起きた親今川派の国衆の叛乱も鎮圧し、苦労しながらも西三河の支配権を確立しました。

■本證寺

三河一向一揆は、のちの三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並んで「家康三大危機」のひとつに数えられます。

一向宗は、浄土真宗本願寺派の別名で、戦国時代に蓮如が各地に広めました。
西三河では土呂本宗寺を筆頭に、「三河三ヶ寺」と呼ばれる野寺本證寺・佐々木上宮寺・針崎勝鬘寺が勢力を誇りました。

今日は、若き家康を苦しめた「三河三ヶ寺」を順に訪れましょう。
まずは、野本本證寺(ほんしょうじ)へ。現地を訪れると、まるで城郭のような堀と隅櫓が…。

発掘調査などによると、外堀などに囲まれた寺域はなんと東京ドーム2倍以上…このなかに寺内町を形成していました。
当時の本證寺は、家康の本拠岡崎城と同等かそれより巨大だったのではないかと考えられます。

境内には、これまた戦国の城顔負けの土塁や空堀(内堀)があります。
まさに城塞化された巨大な城郭寺院。家康ら松平武士団が攻めあぐねたのもよく分かります。

■上宮寺・勝鬘寺

続いて向かったのは、佐々木上宮寺(じょうぐうじ)
こちらは、本證寺とは打って変わって、何とも近代的な寺院が建立されていました。

ただ案内板によると、北東南を池に囲まれた方形の平地に建ち、三方には土塁と堀がめぐらされ、西にも土塁があったとのこと。
さらに西側に、兵と溝に囲まれた寺内町があったそうです。こちらも当時は城郭寺院だったのでしょう…。

そして、三河三ヶ寺最後の一つ、針崎勝鬘寺(しょうまんじ)へ。
こちらも、今も広大な寺域に土塁跡などを残す本證寺とは異なり、本堂といくつかの建物があるのみ。

ただこちらも当時は、より広い寺域のなかに寺内町を形成していたそうです。
勝鬘寺にはのちに徳川十六神将となった蜂屋半之丞貞次渡辺半蔵守綱が百余騎とともに境内に立てこもりました。ここから小豆坂や上和田方面へ討って出て、家康軍と激しく戦った逸話が今に伝えられています。


さて、三河一向一揆の顛末ですが…。
家康は、一揆側と和睦して争いをおさめますが、後に土呂本宗寺と三河三ヶ寺に改宗を迫ります。しかしこれが拒否されたために、寺院を破却してしまいました。

家康は、和睦の文言に「前々のごとく」するとあったのを、「前々は野原であった」として寺を破却したものと伝えられます。
この辺りは、さすがは「狸親父」と呼ばれた家康…。一揆側より1枚も2枚も上手だったのかもしれません。

■基本情報

【本證寺(ほんしょうじ)】
住所:愛知県安城市野寺町野寺26
アクセス:名鉄「南桜井」駅から徒歩約15分
営業時間:5時~17時

【上宮寺(じょうぐうじ)】
住所:愛知県岡崎市 上佐々木町梅ノ木34
アクセス:JR「西岡崎」駅から徒歩5分
営業時間:24時間

【勝鬘寺(しょうまんじ)】
住所:愛知県岡崎市針崎町朱印地3−3
アクセス:JR「岡崎」駅から徒歩12分
営業時間:24時間

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