頼朝と政子を支えた安達盛長!鎌倉・伊豆に残る史跡と伝承と

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館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、頼朝と政子を支えた安達盛長!鎌倉・伊豆に残る史跡と伝承と…です。

■安達盛長

安達盛長(あだちもりなが)は、源頼朝の側近として知られる、鎌倉殿の御家人です。

頼朝の乳母・比企の尼の娘婿であった縁で、頼朝が伊豆の流人であった頃から仕えました。
盛長は、頼朝のために京の様子や情勢を集める役割を担っていたと思われます。

頼朝挙兵後は、使者として各地の関東武士の糾合に活躍
頼朝の鎌倉入り後は上野国の奉行人に任じられ、奥州合戦の後には陸奥国安達郡が与えられるなど、頼朝から厚い信頼を得ました。

頼朝の死後も、2代将軍頼家を支える13人の合議制(鎌倉殿の13人)の一人に選ばれるなど、引き続き重用されました。
しかし、そんな盛長に降ってかかった災難とも言える事件が襲います。

正治元年(1199年)将軍頼家が、盛長の嫡男・景盛の愛妾に懸想し、これを強奪するという事件が起きます。
さらに頼家は、この強奪事件に不満を持つ景盛を、あろうことか誅殺しようとしました…。

これを知った政子(頼朝の妻/頼家の母)は、景盛邸に入ると「景盛を攻めるならまず私に矢を射なさい」と発し、頼家の凶行を思いとどまらせました。
政子によって安達家存亡の危機を乗り越えた盛長は、その翌年、静かに息を引き取りました。享年66歳。

■安達盛長ゆかりの地・鎌倉

それでは、頼朝の側近にして、「鎌倉殿の13人」の一人、安達盛長ゆかりの地をぶら歩きしましょう。

盛長の居館があったとされるのが、鎌倉の無量寺谷(むりょうじがやつ)です。
現在は鎌倉歴史文化交流館のある辺りに、盛長を祖とする安達氏の邸宅や、同氏と関係の深い無量寿院があったとされます。

盛長の邸宅は「甘縄」にあったとされますが、その詳細は不明でした。
ただ近年の発掘調査で、この無量寺谷から鎌倉時代後期の池の跡や礎石が見つかり、安達氏の館に関する遺構とする説が有力となっています。

実際に、鎌倉歴史文化交流館を訪れると、調査で出土した墨書木札や仏花瓶が展示されていました。
警護の当番を記す木札には、安達氏に関係のある人々の名が…。これは貴重な出土品です。

また、当館別館の前には、鎌倉時代の面影を残す庭が広がっています。
中世のものとされる「やぐら」(横穴)も。ここで、玉砂利を敷いた鎌倉時代後期の池と遣水の遺構が発見されています。

■安達盛長ゆかりの地・伊豆

安達盛長は、頼朝と北条政子の恋仲を取り持った人物とも言われます。
もともと政子の妹に届けるはずだった頼朝の恋文を、頼朝の妻に相応しいのは政子だと考え、宛名を書き換えて政子に届けたのだとか。

伊豆韮山の蛭ヶ島に建つ夫婦像。盛長は、2人の恋のキューピットを務めたのですね。
この2人が結ばれなければ、鎌倉幕府成立もありませんでした。盛長は、鎌倉殿の陰の立役者と言えますね。

その後も盛長は、頼朝と政子を支え続けました。
三嶋大社には、源氏再興を祈願するため日参した頼朝と政子を、盛長が警護した場所とされる「安達藤九郎盛長警護の跡」があります。

その晩年に訪れた安達家存亡の危機…。それを救ったのは、彼が鎌倉殿とともに支え続けた北条政子でした。
政子の身を挺した行動は、盛長に対する感謝の証だったのかもしれませんね。

■基本情報

【鎌倉歴史文化交流館(無量寺谷)】
所在地:神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目5−1
アクセス:JR鎌倉駅から徒歩7分
営業時間:10:00~16:00
休館日:日曜・祝日

【蛭ヶ島公園(蛭ヶ島の夫婦)】
所在地:静岡県伊豆の国市寺家334
アクセス:伊豆箱根鉄道韮山駅から徒歩10分
営業時間:24時間営業

【三嶋大社(安達藤九郎盛長警護の跡)】
所在地:静岡県三島市大宮町2丁目1−5
アクセス:JR三島駅から徒歩15分
営業時間:8:30~16:30(日祝は17:00)

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