城ぶら「吉田城」!水戸城を支えた中世城郭、三つ葉葵の御紋輝く寺院

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。そんな人たちにとって最高の旅。
それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、茨城県水戸市にひっそりと残る戦国の城跡、「吉田城」です。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

水戸城の約2km南、現在の水戸市元吉田町に、緑茂る小高い台地があります。
いまは常照寺の寺社地周辺一帯が、かつて吉田城があったところです。

平安時代後期、平国香の子孫吉田盛幹がこの地に館を建てたのがはじまりとされます。
鎌倉時代に入ると、盛幹の孫にあたる馬場資幹が常陸大掾職に任ぜられ本拠となる水戸城を築きます。この頃吉田城は水戸城の支城となったと思われます。

しかし応永23年(1416)水戸が江戸氏の支配下になると、吉田城も江戸氏の領地となります。このとき土塁や濠が強化されたものと推定されます。
天正18年(1590)江戸氏が佐竹義宣に攻略されると水戸は佐竹領となります。吉田城も佐竹氏の支配下となり、佐竹氏重臣である車丹波守斯忠に与えられました。

関ヶ原の戦いの後、佐竹氏が秋田に転封されると吉田城は廃城となりました(1602)。
なお、このとき秋田移封に憤慨した車丹波は水戸城奪還を企てますが、捕らえられて磔刑に処されました。

跡地には、水戸藩主2代徳川光圀によって常照寺が建てられ、現在に至っています。

■城ぶらり

それでは、そんな水戸城を支えた中世城郭のあと、「吉田城」をぶら歩きします。

吉田城が築かれた場所は、三方を沼地(一つは旧千波湖)が囲む小高い丘陵地。
天然の要害と言えるようなところで、武家の居館としては絶好の場所と言えます。
当時の城跡を示す明確な遺構も案内もないですが、土塁や空堀と思しき跡がありました。

いまは跡地に、臨済宗大徳寺派に属する常照寺が建っています。
ここは、水戸藩主2代徳川光圀の創建。山門には、光圀公自筆と言われる「佛日山」の額が掲げられています。

三門脇に、ひっそりと「吉田城跡」の碑が立っています。
これが無いと、よっぽどの城好きじゃないと、ここが城だったとは気づかないでしょう…。

石段を登って本堂に向かいます。この辺りも城視点でとらえれば、防御に適していると考えられます。
ただ、そんなものものしい考えを拭い去るほど、参道はひそやかな静寂に包まれていました。

そして本堂へ。現在の本堂は天明6年(1786)に再建されたもの。
境内の墓地には、弘道館に絵を書き残した画家萩谷遷喬や家臣戸田忠則らが眠っています。

この辺りに歴代城主の居館があったのでしょうか…。残念ながらそれを示す遺構は残っていません。
ただ、この寺が徳川ゆかりの寺社である証拠はしっかりと刻まれていました。本堂や門の屋根に輝く、徳川の三つ葉葵の御紋…。
さすがは徳川光圀("水戸黄門"として知られる人物)創建。「この葵の御紋が目に入らぬか!」という感じでしょうか。


以上、今日の夢中は、城ぶら「吉田城」!水戸城を支えた中世城郭、三つ葉葵の御紋輝く寺院…でした。
よくよく見ると、「元吉田町」という地名も城ゆかりですね。中世の歴史を今に伝えています。
徳川ゆかりの常照寺を参拝した折には、その徳川統治より前に繰り広げられた戦国の歴史に思いを馳せてみるのもいいかもしれません。ありがとう、吉田城!

■基本情報

名称:吉田城跡(常照寺)
所在地:茨城県水戸市元吉田町2723
アクセス:JR水戸駅から約2km

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