城ぶら「小田原古城 八幡山古郭」!戦国の風雲児・北条早雲、進撃のあと

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、城ぶら「小田原古城 八幡山古郭」!戦国の風雲児・北条早雲、進撃のあとです。

■家康を辿る物語

難攻不落の城・小田原城。この城があるから、豊臣秀吉の大軍を迎えても北条氏は動じませんでした。
この小田原城に目を付けたのが、北条氏の始祖・北条早雲(伊勢宗瑞)でした。

小田原城の始まりは平安時代末期、相模国の豪族・土肥一族が当地に居館を構えたこととされます。
応永23年(1416)上杉禅秀の乱で土肥氏が失脚すると、駿河国の大森頼春がこれを奪い相模・伊豆に勢力を拡大。この頃小田原城(小田原古城)を築いたと伝わります。

明応4年(1495)、伊豆国を支配していた早雲は、大森藤頼が守る小田原城に攻め入ります
逸話によると、早雲は藤頼に対して進物を献上し友好関係を築くと、「小田原周辺で鹿追いをしたい」と申し入れ承諾されます。

早雲は、鹿追いを装い韮山を出兵。その夜、角に松明を灯した千頭の牛を放ち、小田原城を急襲しました。
数万の兵が攻め寄せてきたと怯えた小田原城は大混乱となり、藤頼は命からがら城を脱出。早雲は、易々と小田原城を手に入れました。

さすがは、戦国の風雲児と呼ばれる北条早雲…。狡猾というか巧みな城取りですね。
勢いに乗った早雲は、この後、宿敵三浦氏を討って相模国を平定。関東一円に勢力を拡げ、北条5代約100年にわたる繁栄の基礎を築きました。

■小田原古城(八幡山古郭)

小田原合戦で北条一族が籠城した関東の名城・小田原城
今日はその前日譚、北条5代100年の繁栄の基礎を築いた「小田原古城」をぶら歩きしましょう。

北条氏の始祖・早雲が大森氏を駆逐した頃の小田原城(通称「小田原古城」)は、現在の天守閣のある城址公園の西側に本拠があったと考えられます。
この一帯は、「八幡山」と呼ばれる小高い丘陵地。そのため、「八幡山古郭」とも呼ばれています。

小田原駅を出てJR東海道線沿いを歩いていくと、「八幡山古郭 東曲輪」の遺構があります。
切り立つ丘陵はなかなか圧巻。大森氏あるいは北条早雲の時代の曲輪と考えられ、古城は自然の地形を生かした土の城であったことがうかがい知れます。

坂道を登った高台の平地部からは、天守閣を中心に小田原城下を望むことができます。
なお、平成17年(2005)に行われた発掘調査では、16世紀代の半地下式の倉庫等と見られる遺構や建物跡が発見されています。

さらに八幡山丘陵を登った、小田原高校敷地内の発掘調査でも、大規模な石組みを持つ井戸や障子堀などが確認されています。
現地の案内板を見ると、現在の小田原高校の敷地に、本曲輪や西曲輪など重要な施設があったことが分かります。

この丘陵中腹部は、大森氏が築城した小田原古城の中心部と考えられ、その後奪取した早雲が土塁や堀を整備したとされます。
校舎やグラウンドは立ち入り禁止ですが、敷地周辺に八幡山古郭跡を見学できる散策路が設けられていて、曲輪や土塁、堀(三味線堀)の遺構を見ることができます。

なおその後、北条氏が現小田原城に本拠を移してからも、八幡山古郭は詰城として重要な役割を担いました。
小田原合戦においても、北条氏政がここに陣を置いたとされます。氏政は主戦派の筆頭…。小田原古城から「秀吉なにするものぞ」と気炎を上げたことでしょう。

その小田原の地に、いよいよ秀吉の大軍が攻め寄せます。北条氏の運命はいかに…。

■基本情報

名称:八幡山古郭跡(小田原古城)
所在地:神奈川県小田原市城山3-24
アクセス:小田原駅から徒歩10分

ブログランキングに参加しています

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事