城ぶら「佐倉城」!千葉氏の内紛を経て徳川譜代の城へ…江戸の東を守る要塞

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、城ぶら「佐倉城」!千葉氏の内紛を経て徳川譜代の城へ…江戸の東を守る要塞です。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

佐倉城は、戦国時代中期、千葉氏が鹿島幹胤に命じて築城を開始したのがはじまりとされます。
しかし、千葉氏の当主が暗殺されるなどして工事は頓挫。その千葉氏も豊臣秀吉の小田原征伐によって滅亡してしまいます。

慶長15年(1610年)、徳川幕府の重臣・土井利勝が佐倉藩主となると、家康の命を受けて築城が再開されます。
利勝は、印旛沼を外堀の一部とし、石垣の代わりに土塁や堀を築いて守りを強化。大改修を行って佐倉城を築造しました。

以後、佐倉城は江戸の東を守る要として、有力譜代大名が城主を務めます。歴代城主の多くが老中など幕府の要職に就いたことから、別名「老中の城」とも呼ばれました。
明治期に入って、廃城令により建物のほとんどが撤去。城跡は陸軍の駐屯地となりますが、現在は「佐倉城址公園」として整備されています。

■城ぶらり

それでは、千葉氏から徳川氏へ、江戸時代には多くの老中を輩出した佐倉城をぶら歩きしましょう。
城跡は現在、「佐倉城址公園」(千葉県佐倉市)として整備されています。日本100名城の一つです。

公園内には「国立歴史民俗博物館」(歴博)も建っています。その歴博のすぐ近くに、城ファンにはたまらない遺構がありました。
それが「馬出し空堀」です。城の出入り口を守るための防御陣地で、「コ」の字型の土塁と空堀が見事に復元されています。

さらに足を進めていくと、これまた貴重な遺構がありました。佐倉城の礎石です。
佐倉城跡は明治期に陸軍の駐屯地となりましたが、その際、佐倉城の礎石が兵舎の基礎に転用されていたということ。建物は壊されましたが、礎石は残ったのですね。

そして圧巻は、土を高く盛った「土塁」です。曲輪の周囲を「土の壁」が張り巡らされています。
実際に土塁の前に立つと、想像以上の高さに驚愕します。さすがは、江戸の東を守る要塞。石垣がなくとも攻めるのは困難をきわめるでしょう。

佐倉城は、かつて三重櫓があり、それを天守に代用していたと言われます。こちらも建物は現存しませんが、土台部分の天守台が残っていました。
ここの天守台も、もちろん土でできています。上に登ると広い本丸跡を見渡すことができます。徳川幕府のエリートたちもこの景色を見ていたのでしょうか…。

今日の夢中は、城ぶら「佐倉城」!千葉氏の内紛を経て徳川譜代の城へ…江戸の東を守る要塞でした。
ありがとう、佐倉城! 日本100名城の一つです。

■基本情報

名称:佐倉城跡(佐倉城址公園)
住所:千葉県佐倉市城内町茶室三逕亭 官有無番地
アクセス:京成佐倉駅から徒歩20分、JR佐倉駅から徒歩25分またはバス
営業時間:常時開放

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