城ぶら「大多喜城」!徳川四天王・本多忠勝ゆかりの千葉の名城

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、徳川四天王・本多忠勝ゆかりの千葉の名城、大多喜城です。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

徳川四天王の一人、本多忠勝ゆかりの大多喜城。
その築城は1521年、上総国の戦国大名・真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされます。

その後、上総国をめぐる里見氏との抗争の舞台となり、城主を変えながら戦国時代末期をむかえます。
そして1590年、里見氏に替わって同地の支配権を得たのが徳川家康でした。家康は腹心の勇将・本多忠勝を城主に任じます

忠勝は上総に入ると、里見氏への備えとして、大多喜城を近世城郭に大改築
ふもとに城下町を整備するなど、いまの大多喜の街の基盤をつくりました。

その後、忠勝は、関ヶ原の論功から桑名に移封。大多喜城は次男の忠朝が後を継ぎますが、忠朝は大坂夏の陣で無念の戦死
その後同地は、徳川譜代の阿部氏や大河内松平家などが治めますが、1842年に天守が焼失。城も明治3年(1871年)に取り壊されました。
現在の天守は、昭和50年(1975年)に城跡に再建されたものです。

■城ぶらり

大多喜城の旅は、いすみ鉄道の大多喜駅からスタート。
ここから城までは観光バスも出ていますが、時間が限られていたので歩いて向かいました。

歩くと城まで20分くらいかかります。
途中、大多喜城の本丸下を流れる御禁止川(おとめがわ)の流れを見ながら進みます。ちなみに、この川は城主が江戸時代に魚を獲ることを禁止したのでこの名前がつきました。

歩くことしばらくして、ついに大多喜城へ。
目の前にそびえ立つのは、大多喜城の本丸跡に建てられた3層4階の復興天守(模擬天守)
1835年(天保6年)の図面をもとに、昭和50年(1975年)に復元されました。

現在は、歴史博物館として公開されています。
城内(=博物館内)には、城に関わる史料や武具、調度品、さらには城下町の生活に関する史料などが展示がされています。

天守の周囲には、土塀が巡らされています。
その瓦には、本多家の家紋「丸に立葵」が刻まれていました。

二の丸跡は、、現在は大多喜高校の敷地になっていますが、その中に本多忠勝のときに掘られたという周囲17m、深さ20mの「大井戸」があります。
日本最大の井戸の一つ。当時は「底知らずの井戸」と呼ばれました。

同校内には、大多喜城内構造物の唯一の遺構である「薬医門」があります。
明治4年の廃藩の際に民間に払い下げられたもので、後に同校の校門として寄贈されました。

この薬医門の場所からは、大多喜城を眺望することができます。
門から見上げる大多喜城天守。なんとも風格がありますね。

■街ぶらり

大多喜の街にも、本多忠勝ゆかりの史跡が点在しています。
まずは、本多氏の菩提寺・良玄寺。世に知られる本多忠勝画像もここに収められています。

また、境内には忠勝と忠勝夫人、忠朝の墓碑があります。
真ん中が忠勝、右が忠勝夫人、左が忠朝の墓碑です。

この良玄寺の近くにある橋が行徳橋
この橋の欄干に本多忠勝の銅像がちょこんと鎮座しています。橋の両端に2体。
ちょっと小さめですが、勇将・忠勝の覇気が伝わってきますね。

さらに、房総の小江戸と呼ばれる大多喜の街。見どころはまだまだあります。
通称「牛頭天王宮」と呼ばれる「夷隅神社」。祭神はスサノオノミコト。
創建は定かではありませんが、平安期に再建された歴史ある神社。忠勝をはじめ代々の大多喜城主に篤く崇拝されたそうです。

夷隅神社の向かいにあるのが「大屋旅館」です。
江戸時代から続く老舗旅館で、国の登録有形文化財として登録されています。
正岡子規が学生時代に宿泊したことでも有名。その風情ある佇まいから、ドラマや写真集のロケ地にも使われています。

本多忠勝ゆかりの大多喜城。徳川の時代を偲んで、大多喜の小江戸旅を楽しむのもいいかもしれません。
ありがとう、大多喜城! ありがとう、本多忠勝!

■基本情報

名称:大多喜城(千葉県立中央博物館 大多喜別館)
所在地:千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481
アクセス:いすみ鉄道大多喜駅下車、徒歩約20分
開館時間:9:00~16:30(入館は16時まで)
料金:大人200円、高・大学生100円、小中学生無料
休館日:毎週月曜日、年末年始

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