石田三成襲撃事件勃発!家康の仲裁により三成は居城「佐和山城」へ…

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。
今日の夢中は、石田三成襲撃事件勃発!家康の仲裁により三成は居城「佐和山城」へ…です。

■石田三成襲撃事件

秀吉死後、政権の主導権をめぐって対立を深める石田三成と徳川家康
慶長4年(1599年)初頭、家康が諸大名と縁組を進めていることを三成が糾弾、前田利家ら四大老を担いで弾劾状が送られます。
これに対し、家康も国許から兵を呼び寄せるなど対立が先鋭化しますが、家康が起請文を提出することで一旦は収束しました。

一方で三成は、加藤清正、福島正則、黒田長政ら武断派七将との確執も深まっていました。
同年3月、仲裁役である前田利家が病死すると、これら七将が堰を切ったように三成の大坂屋敷に攻め寄せます(石田三成襲撃事件)。

その動きを事前に察知した三成は、危地を脱出して京都の伏見城に逃げ込みます。
この後、七将は伏見城を取り囲み一触即発となりますが、ここに仲裁に乗り出したのが家康でした。
家康は、七将の三成引き渡し要求を拒否すると、その代わりに三成を隠居させること、朝鮮出兵の査定を見直すことを約束し、三成をその居城である佐和山城に蟄居させました。

■佐和山城

今日の城ぶらは、石田三成の居城「佐和山城」を訪れましょう。
「治部少に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」と詠われた名城。城は近江国坂田郡(現在の滋賀県彦根市)の佐和山にありました。

そんな名城も関ヶ原の戦い以降に廃城、建造物は一部移築されたものの他は徹底的に破壊されたため、城址はほとんど何も残っていません。
勿体ないというか敗者のあわれというか…。それでも善政を敷いて民に慕われていたという三成、その居城の遺構を訪ねましょう。

城址である佐和山には、ふもとにある龍潭寺から登山道をつたって登ることができます。
境内には三成の銅像がありました。見るからに真面目そう…。秀吉の天下統一を支えた秀才、豊臣政権に欠かせない逸材でした。

佐和山城は、その名のとおり山城です。山城恒例の山道の行脚がスタートです。
山門を通って境内の奥から登山道へ。佐和山は標高233m、本丸跡のある山頂までは30分ほどの道のりです。

建物も城址を偲ぶ遺構も残っていないのでほぼ登山…。これは体力勝負です。
途中「西の丸跡」とされる曲輪跡櫓跡切通しと思しき跡があって、城ファンとしてはちょっと一息付けました。

一歩一歩踏み進めて、ようやく山頂、本丸跡へ。昔の武士たちは健脚だよな…。
三成も登ったんだろうなと、本丸跡に建つ「佐和山城址」の碑を前にすこし感慨に浸りました。

佐和山城には、三成が城主だったときに、5層(3層とも)の天守が築かれたと言われます。
いまでも琵琶湖が一望できますが、天守からは四方を見渡すことができたでしょう。ここは京や大阪を守る要衝、まさに睨みをきかせていたのかもしれません。

家康との政争に敗れ佐和山城に蟄居となった石田三成。しかし彼は諦めていませんでした。
家康が会津に向けて出兵したそのとき、ついに佐和山城を立つことになるのです。続きはまた、当ブログ「夢中図書館 いざ城ぶら」で綴ってまいります。

■基本情報

名称:佐和山城址
住所:滋賀県彦根市古沢町
アクセス:JR彦根駅から徒歩25分(そこから登山道へ)

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