こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。
全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。
いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、北条泰時ゆかりの鎌倉史跡!日本屈指の名宰相が切り拓いた海陸の道と武家社会の未来です。
■北条泰時
北条泰時は、鎌倉幕府2代執権・北条義時の長男です。
父義時を支え、和田合戦などで武功を挙げると、承久の乱では幕府軍の総大将として上洛、後鳥羽上皇率いる朝廷軍を打ち破りました。
元仁元年(1224年)義時が急死すると、その後を継ぎ第3代執権の座に就きます。
すると泰時は、それまでの専制から合議制へ政治方針を転換。執権を支える「連署」を設け叔父の時房を任命すると、幕政を評議する「評議衆」を設置し有力御家人らとの協調を図りました。
さらに貞永元年(1232年)、日本初の武家法典である「御成敗式目」を制定。
各地で相次いでいた御家人間の紛争において、公平な裁判を行うための客観的な規範を作りました。これは鎌倉時代以降も武士の規範として重く用いられました。
経済政策においても、相模湾に人口の港「和賀江嶋」を造り海運を奨励。さらに「朝比奈切通し」を拓き陸運も活性化させ、鎌倉の発展に尽力しました。
一方で、対朝廷政策は厳粛に進めました。後鳥羽上皇の還京を許さず、皇位継承でも承久の乱で討幕派であった順徳上皇の皇子即位を決して認めませんでした。
仁治3年(1242年)病のため出家、しばらくして息を引き取りました。享年60。
その清廉実直な政治スタイルや成し遂げた功績の数々から、北条泰時は「日本屈指の名宰相」と呼ばれています。
■和賀江嶋
清廉実直な政治を貫いた、北条泰時。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、父義時が粛清に手を汚していく中で、堂々と正論を唱え実行していく姿が爽やかでしたね(演じたのは坂口健太郎さん)。
ドラマでは描かれていませんが、泰時はその後、御成敗式目を制定したり、独自の経済振興策をとったり、白眉の政治手腕を発揮します。
さすがは「日本屈指の名宰相」と呼ばれている人物…。彼の治世下では、有力御家人の粛清は一切行われませんでした。
(和賀江嶋)
そんな泰時の足跡が、いまも鎌倉に残っています。人口の港「和賀江嶋」はその一つ。
貞永元年(1232年)泰時は、相模湾東岸に港湾施設を建造する計画を強く後援。家臣の平盛綱らを派遣して工事を推進すると、同年8月に竣工させました。
これにより、多くの船舶が鎌倉を行き来するようになり、鎌倉は海運で大きく発展しました。
現存する築港遺跡としては日本最古…いまも「和賀江嶋」の跡がわずかに残っています。
■朝比奈切通し
海だけでなく陸の道も切り拓きました。鎌倉と金沢(六浦)を結ぶ「朝比奈切通し」です。
仁治2年(1241年)泰時は、鎌倉から三浦半島を横断する切通しを拓くことを評議すると、諸将に命じ工事に着手します。
(朝比奈切通し)
しかし難工事のため進捗が滞ると、泰時自ら工事現場に出向き、土石を運び着工に寄与したといいます。
当地を現在訪れても、切り立つ岩壁は圧巻…。鎌倉を囲む岩山を、幅員4m、高さ(深さ)10mほど切り下げて造られた開削路。これ、今でも難工事なんじゃないかしら…。
この切通しが開通したことにより、金沢(六浦)から塩や物資が運ばれたり、その先の房総との交易も盛んになったものと思われます。
まさに、鎌倉を豊かにするために尽力したんですね、北条泰時は…。日本の名宰相と言われる所以です。
(朝比奈切通し)
そんな泰時ですが、仁治3年(1242年)病を患い、60歳で没しました。
日ごろの過労に加え、赤痢を併発したものと伝わります。なにしろ死の前年まで切通しの工事を指揮してたんですから…。その献身ぶりには涙を禁じ得ません。
北条泰時の墓所は、常楽寺(鎌倉市大船)にあります。
あらためて、その偉大な功績を讃えるとともに、安らかなる眠りをお祈りします。あなたのお陰で、日本の武家社会の未来が拓かれました。
(北条泰時の墓/常楽寺)
今日の夢中は、「鎌倉殿の13人」ゆかりの地めぐりの締め括りとして、北条泰時の功績を辿りました。
北条義時から泰時へ…。鎌倉の希望は繋がりました。北条泰時は、鎌倉のみならず日本の武家社会の未来を拓いたのです。
ありがとう、北条泰時! ありがとう、「鎌倉殿の13人」!
■基本情報
【和賀江島】
所在地:神奈川県鎌倉市材木座6丁目
アクセス:JR鎌倉駅東口から京急バス逗子駅行き(約10分)「飯島」下車 徒歩2分
【朝比奈切通し】
所在地:神奈川県横浜市金沢区朝比奈町峠坂1番地
アクセス:JR鎌倉駅西口から京急バス太刀洗行きまたは金沢八景行き(約13分)「十二所神社」下車徒歩10分
【北条泰時の墓(常楽寺)】
所在地:神奈川県鎌倉市大船5丁目8−29
アクセス:JR大船駅から徒歩20分