鎌倉大船「常楽寺」!鎌倉殿に翻弄された大姫の悲しい恋物語

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

今日の夢中は、鎌倉殿に翻弄された悲しいヒロイン、大姫ゆかりの鎌倉大船「常楽寺」です。
「鎌倉殿の13人」ゆかりの地!鎌倉「常楽寺」に伝わる「大姫の墓」と「木曾義高の墓」…。2人のはかない恋物語を偲びます。

■大姫

大姫は、源頼朝と北条政子の間に生まれた最初の子供です。
父頼朝は、大姫が生まれたときは伊豆の流人でしたが、大姫が数え3歳のときに挙兵すると、東国を制圧して「鎌倉殿」と呼ばれるようになりました。

寿永2年(1183年)、大姫6歳のときに、頼朝と木曾義仲の和睦のため、鎌倉に送られた義仲の嫡男義高(11歳)と婚約します。
いわゆる政略結婚でしたが、そんな大人の事情をよそに、2人は互いに親しみ合う仲となりました。

しかし寿永3年(1184年)、頼朝と義仲の関係は破局。頼朝は義仲を都の郊外で討ち滅ぼします。
続いて、頼朝は将来の禍根を断つべく、鎌倉にいる義高の殺害命令を下しました。

それを漏れ聞いた侍女たちから知らせを聞いた大姫は、義高を女装させて鎌倉を脱出させます。
懸命の逃亡を図った義高ですが、まだ少年…。間もなく追っ手に捕らえられ、入間河原で討たれました。享年12歳。

義高の死を知った大姫は、ショックで水が喉を通らなくなるほど打ちひしがれます。
その後年数を経ても大姫の心は癒えず、床に伏したりふさぎこむ日々を送るようになりました…。

建久5年(1194年)、大姫17歳のときに、父頼朝が京の貴族・一条高能との縁談を勧めます。
しかし大姫は、「結婚などしません。無理にするくらいなら深淵に身を投げます」と拒絶しました。

それでも、朝廷との繋がりを模索する頼朝は、今度は大姫を後鳥羽天皇の妃にするべく入内工作を進めます。
しかし、そうした状況を憂いてか、大姫の病が悪化…。建久8年(1197年)、この世を去りました。享年20歳。

■常楽寺

鎌倉殿に翻弄された悲しいヒロイン、大姫…。

6歳にして恋に落ちた大姫は、7歳にして恋する心を失いました。
大姫は、今で言う「うつ病」になったのではないかと思われます。

大姫が恋したのは、鎌倉に人質としてやって来た木曾義高でした。
敵となった人質の命を奪うのは戦乱の世の常とは言え、恋する義高に殺害命令を下したのは、父頼朝でした。これは、少女が背負うにはあまりにハードな業(ごう)でした…。

大姫は、このとき負った心の傷を生涯癒すことなく、20歳にしてこの世を去りました。
その大姫のものと言われる墓が、鎌倉「常楽寺」にあります。

常楽寺の裏山を上って行くと、中腹ほどに「大姫の墓」があります。
墓と言うよりは祠のような感じです。北条泰時の娘の墓という説もありますが、大姫のものと思いたい…。

なぜなら、さらに進んでいった山頂部に、この人の墓があるから。「木曾義高の墓」です。
大姫の生涯ただ一人の夫。義高の墓があることから、この裏山は「木曾塚」とも呼ばれています。

(左:木曾義高の首塚、右:木曾義高の墓)

現世では、大人たちの戦いに巻き込まれて儚く終わった2人の恋物語
せめて天上の世界では、誰にも邪魔されることなく、幸せな日々を送っていることを祈るばかりです…。

■基本情報

名称:常楽寺
所在地:神奈川県鎌倉市大船5丁目8−29
アクセス:JR大船駅から徒歩20分

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