城ぶら「聚楽第」!権力の象徴から悲劇の城へ…8年で消滅した京の城

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、関白秀吉と秀次にまつわる悲劇の城「聚楽第」です。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

「聚楽第」(じゅらくだい/じゅらくてい)は、豊臣秀吉が京都に造営した政庁兼居館です。
関白になった秀吉が1586年(天正14)に着工し、翌1587年に完成させました。

「第」(=邸宅)を称していますが、西の丸・南二の丸・北の丸などの曲輪があり、堀を巡らせていたことから、形態としては平城形式の城郭といえます。
九州征伐を終えた秀吉は、大阪からここに居を移し政務を執りました。1588年には後陽成天皇の行幸を迎え、当時の秀吉の権力を象徴する館となりました。

(豊臣秀吉像/写真ACより)

1591年、秀吉は甥の豊臣秀次に家督と関白職を譲ると、聚楽第は秀次の邸宅になりました。
しかし、秀吉に実子の秀頼が誕生(1593年)すると事態は一変。疎ましい存在となった秀次は高野山に追放、切腹させられました…。

秀吉はさらに、秀次の痕跡を消し去るために、聚楽第を徹底的に破壊するように命じました。
これにより、聚楽第は基礎に至るまで徹底的に破却。堀は埋め立てられ、周囲にあった大名邸宅まで取り壊されました(1595年)。

こうして、天下人の威厳を示した聚楽第は、竣工からわずか8年で、歴史から消えて無くなりました。

■城ぶらり

このように、聚楽第は徹底的に破却されてしまったので、明確な遺構は残っていません

聚楽第があった場所は、京都の旧平安京内裏跡(現在の京都市上京区)にあたります。
その規模は、東西約600メートル、南北約700メートルと考えられ、後に徳川家康が造った二条城よりもさらに大きな規模でした。

その豪華絢爛な威容は、「聚楽第図屏風」や「洛中洛外図」などから窺い知ることができます。
そこには天守のような建物が描かれていますが、残念ながらその実在すら分かっていません。

秀吉の御所参内・聚楽第行幸図屏風

現在、跡地にはひっそりと、聚楽第があったことを示す石碑が建っています。
一つは、本丸の東堀跡とされる「聚楽第址」の石碑。中立売通りと大宮通りの交差点北西にあります。
ここでは、1992年の発掘調査で金箔瓦約600枚が出土しました。どんな建物があったんだろう…浪漫が広がりますね。石碑の東面に「此付近 大内裏及聚楽第東濠跡」と刻まれています。

今ひとつは、本丸の西堀跡と見られる場所に建つ「此付近 聚楽第址」の石碑。こちらは、 中立売通りと裏門通りの交差点南西にあります。
立て看板もあって、そこには「かつてこの一帯には平安時代に平安宮(大内裏)があったことから「内野」と呼ばれていた。その後、安土桃山時代に平安宮跡北東部分に豊臣秀吉によって築かれた聚楽第と呼ばれる城があった…」と記されています。

その立て看板の記載のとおり、ここは元平安宮の大内裏。すぐ近くには「平安宮大蔵省跡」の石碑もあり、ここが京の都の中心であったことが偲ばれます。
やっぱりすごいな、京都…。源氏物語の世界から、戦国乱世の時代まで、歴史浪漫の宝庫ですね。

■瑞泉寺

最後に、少し足を延ばして、悲運の関白・豊臣秀次の墓所を詣でましょう。

秀吉によって蟄居・切腹を命じられた秀次は、28歳にしてこの世を去りました。
悲劇はこれだけで終わりませんでした…。怒り収まらぬ秀吉は、秀次の一族郎党をことごとく処刑しました。

北政所らの助命かなわず、京の三条河原で公開処刑が行われ、幼い若君4人と姫君、側室・侍女・乳母ら39人全員が斬首されました。
大量の遺体はまとめて一つの穴に投じられ、秀次の首と合わせて首塚が造られました…。

それから16年後の1611年(慶長16年)。
豪商の角倉了以が、高瀬川の開削工事を行っていたときに、三条で荒廃した首塚を発見します。

秀次と一族に同情していた了以は、墓域を再建するとともに、その地に堂宇を建立しました。
それが三条大橋の近く、高瀬川のたもとに今もひっそりと建つ瑞泉寺です。

境内には、秀次の供養塔や一族・家臣らを弔う墓(五輪塔)があります。
秀次供養塔は、首塚で発見された石櫃の上に6角形の無縁塔を建てたもの。発見当時「秀次悪逆」と刻まれていたものを了以が削りとって納めました。
また、一族の処刑の場に運び込まれ、子女らに引導を授け続けたと伝わる地蔵菩薩像、通称「引導地蔵尊」も祀られています。堂内には子供たちや女性の小像が…。なんとも切ないです。


秀吉によって造られ、秀吉によって破却された天下人の居城「聚楽第」。
豪華絢爛な京の城が、わずか8年で姿を消した背景には、悲しい物語がありました…

今日の城ぶらは、幻の京の城「聚楽第」と、悲劇の関白・豊臣秀次の菩提を弔う「瑞泉寺」でした。

■基本情報

【ルート名】
聚楽第址から瑞泉寺(豊臣秀次墓所)へ
【所在地】
聚楽第址(本丸東堀跡)の石碑(京都市上京区新元町222 大宮通)
聚楽第址(本丸西堀跡)の石碑(京都市上京区新桝屋町425)
瑞泉寺・豊臣秀次墓所(京都市中京区石屋町 木屋町通117)

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