城ぶら「勝賀城」!讃岐の覇者・香西氏の巨大要塞へ。標高364mから望む絶景と歴史の跡

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、城ぶら「勝賀城」!讃岐の覇者・香西氏の巨大要塞へ。標高364mから望む絶景と歴史の跡です。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

勝賀城(かつがじょう)の歴史は、鎌倉時代にまで遡ります。承久の乱(1221年)で功績を挙げた藤原資村が、恩賞として讃岐国香川郡・阿野郡を拝領しました。
資村は、地名にちなんで「香西氏」(こうざいし)を名乗り、標高364mの険峻な勝賀山に城を築きます。これが勝賀城の始まりです。

室町時代、香西氏は幕府管領・細川氏の有力な家臣として勢力を拡大します。応仁の乱(1467年)では細川勝元の内衆として活躍し、香川氏らとともに「細川四天王」と呼ばれました。
戦国時代に入り、三好氏が下剋上により細川氏に取って替わると、一時はこれに従うも後に対立。三好氏から攻められますが、これを撃退しています。

16世紀後半、勝賀城は最大の危機を迎えます。土佐から四国統一を狙う長宗我部元親の軍勢が押し寄せたのです。
天正10年(1582年)、時の城主・香西佳清は、圧倒的な兵力を前に苦渋の決断を下し、長宗我部軍に降伏。勝賀城は一時、彼らの支配下に入ります。

しかし、その平穏も長くは続きませんでした。天正13年(1585年)、今度は天下統一を目指す豊臣秀吉が「四国征伐」を開始します。
香西氏は長宗我部方として戦いますが、敗れて下野。所領没収のうえ改易となり、勝賀城もその役割を終えて廃城となりました。

■城ぶらり

鎌倉時代から戦国時代末期まで、約400年もの長きにわたってこの地を支配した香西氏(こうざいし)。
その香西氏が、詰めの城として標高364mの勝賀山に築いたのが「勝賀城」(かつがじょう)です。

ということで、城の入り口には「登山道」の看板…。山城恒例の山歩きが始まります。
登山道は整備されたものではなく、ほぼ自然の山道を登り続けます。結構きつい登りが続くので、登山靴は必須、体力も必須です。

登山口から30分ほど…。ようやく山頂部へ辿り着きました。ここが香西氏の讃岐支配の拠点・勝賀城の本丸跡です。
こちらもほぼ整備されていないので、広大な原野といった感じ。その中央部にひっそりと城跡の案内板と石の祠が立っていました。

建物等は全く残っていませんが、有事の詰めの城としての名残りが其処彼処にあります。
周囲を守る土塁、虎口につくられた食い違い土塁など。整備されていないだけに、中世の武士たちの息づかいが生で感じられるようです。

山の頂上付近からは、高松市街地や屋島、そして瀬戸内海に浮かぶ島々が一望できます。
香西氏はここから海を見下ろし、瀬戸内の制海権を監視していたものと考えられます。登りの疲れが一気に癒やされました。

勝賀城は、決して楽に辿り着ける場所ではありません。ただ、その難儀を乗り越えたものだけが味わえる、讃岐武士たちが守ろうとした景色があります。
歴史の深さと自然の厳しさを肌で感じられる素晴らしい城跡でした。ぜひ、登山装備と体力を準備して、この天空の要塞にチャレンジしてみてください。

今日の夢中は、城ぶら「勝賀城」!讃岐の覇者・香西氏の巨大要塞へ。標高364mから望む絶景と歴史の跡でした。
ありがとう、勝賀城! 讃岐の名門・香西氏が築いた城跡でした。

■基本情報

名称:勝賀城跡
住所:香川県高松市鬼無町
アクセス:JR予讃線「鬼無駅」から登山口まで徒歩約20分
開城時間:自由(街灯がないため日中の訪問を強く推奨します)

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