城ぶら「福知山城」!美しい天守と粗々しい石垣と…明智光秀の思いが積もる名城

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、城ぶら「福知山城」!美しい天守と粗々しい石垣と…明智光秀の思いが積もる名城です。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

福知山城は、戦国時代末期、明智光秀によって本格的な近世城郭として整備されました。
もともとは丹波地方を治めるために築かれた横山城という小規模な山城でしたが、丹波平定を果たした光秀が大規模な改修を行い「福知山城」と名を改めたのです。

光秀は近代城郭への修築と同時に、この地を交通の要衝として発展させるために城下町の整備と治水工事を積極的に進めました。
こうして生まれ変わった福知山城は、光秀の丹波支配の象徴となり、地域の発展に欠かせない重要な役割を果たしました。

しかし天正10年(1582年)、光秀は本能寺の変を起こした後、山崎の戦いで敗死。
その後、城は一時的に廃城同然となりますが、豊臣秀吉の時代には重臣の杉原家次や小野木重勝などが入城します。

江戸時代に入ると、有馬氏や朽木氏など様々な大名が入城し、城の維持と発展に尽力しました。
特に朽木氏は江戸時代の後期約200年、福知山藩主として当地を治めました。そして明治に入って間もなく、福知山城はその役目を終え廃城となりました。

■城ぶらり

それでは、明智光秀ゆかりの福知山城跡をぶら歩きしましょう。続日本100名城の一つです。

福知山城は、明治期に廃城令により天守などが取り壊されましたが、市民の熱意により復興が進められ、昭和61年(1986年)に復元天守が再建しました。
復元天守は、三層四階の天守閣に続櫓・小天守が連結された望楼型の近世城郭。令和2年(2020年)に天守の写真が発見され、ほぼ正しい姿で再建されていることが分かりました。

内部は郷土資料館として整備されており、福知山の歴史や光秀にまつわる資料が展示されています。
天守閣最上階からの眺めは圧巻。光秀もここから城下を眺め、丹波の平和と発展を願ったのでしょうか…。

そしてもう一つの見どころが、この天守を支える石垣です。こちらも圧巻…。
ごつごつとした石をそのまま積み上げた「野面積み」の石垣は、当時の光秀の勢いをそのまま今に伝えているようです。

その勢いを最もよく見て取れるのが、石垣のなかにある「転用石」です。これは、石仏や五輪塔、灯籠の台座など寺社から集めた石材を再利用して積み上げた石のこと。
光秀が急いで城を築くため、また石材不足を補うために行ったと考えられています。その数500以上…。これだけ沢山の転用石を間近で見られるのは、福知山城だけなのだとか。

天守台へと続く石段の脇には、かつて福知山城の銅門の脇にあった番所「銅門番所」が移築整備されています。
大正時代はじめに天守台に移築され、さらに天守再建に伴い現在の場所に移されました。当時の面影を今に伝える貴重な建物です。

福知山城は、明智光秀が丹波を平定し城下町を整備した「光秀の思い」が色濃く残るお城です。
「本能寺の変」のイメージが強い光秀ですが、福知山では善政を敷いた名君として今も多くの人に慕われています。

市民の熱意で再建された美しい天守を眺めて、光秀がこの城に込めた思いをしんみり偲ぶのでした…。
今日の夢中は、城ぶら「福知山城」!美しい天守と粗々しい石垣と…明智光秀の思いが積もる名城でした。

ありがとう、福知山城! 続日本100名城の一つでした。

■基本情報

名称:福知山城跡
住所:京都府福知山市内記5
アクセス:JR福知山駅から徒歩15分
開城時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
休城日:火曜日、年末年始など

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