鎌倉にわずかに残る公暁の跡「鶴岡二十五坊跡」実朝暗殺の真犯人は誰か?

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いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、鎌倉にわずかに残る公暁の跡「鶴岡二十五坊跡」実朝暗殺の真犯人は誰か?です。

■公暁の最期

建保7年(1219)正月27日、雪の降る日…。鎌倉最大の悲劇が起こりました。
3代将軍源実朝の暗殺。その命を奪ったのは、2代将軍頼家の遺児・公暁でした…。

公暁は、鶴岡八幡宮を訪れた実朝を襲撃し、「親の仇」と叫んでその首を打ち落とします。
さらに太刀持ちの源仲章も斬り殺すと、実朝の首を持ったままその場を立ち去りました。

実朝を討った公暁は、雪ノ下北谷にある後見人の僧宅へ逃げ込みました。
そして乳母父の三浦義村に使いを飛ばし、「いま将軍の席が空いた。自分が将軍になるから、早く方策を考えよ」と指示しました。

義村はこれを聞き「迎えの兵を送ります」と使者を帰すと、北条義時に事の次第を告げました。
義時は直ちに公暁誅殺を命じます。義村は公暁を討つために、勇敢の誉れ高い長尾定景を差し向けました。

公暁は、義村の迎えが来ないので、待ちきれず自ら義村邸に向かいます。
その途中で定景ら討手と遭遇、戦闘となりましたが、最後は力尽き討ち取られました。享年20歳

■実朝暗殺の真犯人は?

公暁が、実朝を暗殺した理由は、親の仇討ちというのが通説です。
父・頼家は、北条氏の陰謀により将軍職を追われ、伊豆に幽閉された後に暗殺されました。

この後に将軍の座に就いたのが、頼家の弟(公暁の叔父)実朝です。
そのため公暁は、実朝に強い怨恨を抱いており、自らも将軍家の血筋にあることから、単独で犯行に及んだという説です。

(公暁/静岡・大泉寺より)

ただ、少し違和感がありますよね…。将軍暗殺という大それた計画をわずかの僧侶仲間とだけで練り上げられるのか?また、実朝を殺したら自分が将軍になれるなどと「単独」で考えていたのかという点も疑問です。
そのことから、公暁を凶行に導いた「黒幕」の存在を指摘する説もあります。

一つは、北条義時説。義時は当日、太刀持ちとして実朝に随行する予定でしたが、式の直前で体調不良を訴え行列から外れています。あまりに不自然ですよね…。
ここから、義時が公暁をそそのかして実朝を暗殺したという説が生まれています。動機は、京に接近する実朝が邪魔になったというもの…。北条氏にしてみれば、頼家のときと同じ…将軍に対する畏怖など微塵もなかったのかもしれませんね。

次に、三浦義村説。愚管抄には「公暁は北条義時と間違えて源仲章を討った」と書かれています。とすれば、公暁は最初から源実朝と北条義時を討とうとしたことになります。
三浦義村は公暁の乳母父でした。この2人を消して公暁を将軍にすれば、自らが北条氏に代わる存在になれます。しかし義時を殺し損ねたため、公暁を殺して口封じしたというのがこの説です。

さらには、後鳥羽上皇による幕府転覆説や、北条・三浦ら有力御家人共謀説など、さまざまな説が唱えられています。
しかし、いずれも確証はありません。何しろ、真実を知っているはずの公暁がすぐに殺されてしまったのですから…。実朝暗殺の真相は、歴史の闇のなかに葬られました。

■鎌倉に残る公暁のしるし

討ち取られた公暁の首は、北条義時邸に運ばれ、義時によって首実検されたといいます。
しかし、その首の所在も、葬られた場所も分かっていません。

ただ、わずかに公暁の痕跡が鎌倉に残っています。
それが鶴岡八幡宮の北側深くにある「鶴岡二十五坊跡」とされる史跡です。

(鶴岡二十五坊跡)

今は広大な草っぱらですが、鎌倉時代には鶴岡八幡宮に仕える僧侶の住まいがここにありました。
公暁は、修行先の園城寺から戻り鶴岡八幡宮の別当となると、この一帯のどこかに住んだものと考えられます。

付近には、「二十五坊旧跡碑」が建っています。
目を凝らしてよく読むと、碑文のなかに「公暁」の文字が刻まれているのが見えました。

(二十五坊旧跡碑)※右はかすれて見えにくい「公暁」の文字を補正。

そこに書かれている碑文の内容は、現代語にすると次のようなものです。

この地は源頼朝の時代から、八幡宮の僧侶が住まう二十五坊と別当坊が置かれた場所である。かの別当公暁が実朝の首を手に潜んだという、後見人の備中阿闍梨の邸宅もまたこの地にあった。応永年間(1394~1427)に坊の呼び名は、院と改められた。戦国時代になって鎌倉管領が衰えると各院も次第に減って、天正の末(1590年頃)には僅か七院を残すのみとなった。文禄年間(1592~1596)に徳川家康が五院を再興して十二院となったが、明治維新後にはついに全くなくなってしまった。

(二十五坊旧跡碑文を現代語に意訳)

碑文にある通り、公暁は実朝を殺害したあと二十五坊に向かい、後見人である備中阿闍梨の坊に身を潜めました。
このとき、興奮さめやらぬ公暁は、実朝の首を持ったまま食事をとったという逸話が残っています。

そしてここから、乳母父の三浦義村に対して、自分を将軍にする手筈を考えろと指示を出しました。
ただ、待てども義村から迎えが来ないため、1人雪の中を鶴岡背面の山を登り、義村宅に向かう途中で討手に遭遇。奮戦するもそこで討ち取られたと言われます。

いまも鶴岡二十五坊跡の背面には小高い山がそびえます。公暁はその山中で最期を迎えました。
他にも、公暁は義村宅まで辿り着いたものの、板塀を乗り越えようとした所を討ち取られたという説もあります。

(二十五坊跡の背面にそびえる小高い山)


ちなみに、公暁を討ち取る武功を挙げた長尾定景ですが、その墓は久成寺(横浜市戸塚区)にあります。
この勇猛な武将の子孫に、長尾景虎…後の上杉謙信がいます。凶行に及んだ公暁とは相反し、名を挙げた定景の遺伝子は戦国時代まで受け継がれました…。

(久成寺)

■基本情報

名称:鶴岡二十五坊跡
住所:神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目14−28
アクセス:JR鎌倉駅から徒歩20分

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