城ぶら「秋田城」!いにしえの歴史と技術に触れる…北の要衝を守る古代城柵

こんにちは。夢中図書館へようこそ!
館長のふゆきです。

街あるき好きにして、歴史好き。
そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。

今日の夢中は、城ぶら「秋田城」!いにしえの歴史と技術に触れる…北の要衝を守る古代城柵です。

■城語り

まずは、物語りならぬ城語り(しろがたり)から。

秋田城の歴史は、今からおよそ1300年前、奈良時代に遡ります
現在の秋田市に、朝廷の防衛拠点として「出羽柵」が設置されたのが天平5年(733年)のこと。これが後の秋田城のはじまりとされます。
そして、天平宝字4年(760年)ごろには、本格的に「秋田城」と呼ばれるようになりました。

秋田城は、単なる軍事施設ではありませんでした。奈良時代から平安時代にかけて、朝廷が東北各地の人々を統治するための政治、経済、文化の中心拠点として、幅広い役割を担っていたと考えられています。
城内からは、当時の繁栄ぶりを示す様々な遺構や、外国との交流を示す木簡や土器なども多数発見されており、その重要性がうかがえます。

しかし、その統治は決して平坦な道のりではありませんでした。元慶の乱(878年)や天慶の乱(939年)では、激しい攻防戦が繰り広げられた記録も残されており、当時の緊張感が伝わってきます。
平安時代中期になると、律令国家の体制変化に伴い、秋田城の軍事的な役割は徐々に薄れ、10世紀後半には古代柵としての機能を失ったと考えられます。

そして11世紀には廃城となったと考えられますが、それでもその名は歴史の中に深く刻まれました。
鎌倉時代以降、「秋田城介」という官職が武門の名誉として用いられたほか、今日まで「秋田」という地名として受け継がれています。

■城ぶらり

それでは、古代東北の要衝として大きな役割を果たした「秋田城」をぶらり歩いてみましょう。

貴重な古代城柵として国の史跡に指定されている「秋田城」。続日本100名城にも選定されています。
広大な敷地には、奈良・平安時代の面影を伝える重要な遺構が点在しています。まず目を引くのが、復元された「外郭東門」です。

これは圧巻…。遠く東北の地に朝廷の威厳を伝えるに相応しい堂々たる規模と威容です。
土を突き固めた「築地塀」も復元されていますが、雪国には不向きとされる築地塀がめぐらされているのは、朝廷が壮麗な外観を求めたためと考えられます。当時の東北の民衆も圧倒されたでしょうね…。

外郭東門を抜けて鵜ノ木地区へ進むと、ひときわ興味を引くのが「古代水洗トイレ遺構」です。
奈良時代の大規模な水洗トイレを復元、その精巧な構造に驚かされます。排泄物が沈殿槽に流れ込み、上澄みだけが沼地に流れる仕組みになっていたとのこと。
当時の人々の衛生意識の高さや、優れた土木技術を垣間見ることができます。ものづくりのDNAここにあり…ご先祖様、すごいですね。

古代水洗トイレのすぐそばに広がるのが「古代沼」です。発掘調査では祭器類が出土しており、かつては城内で行われた祭祀の場として神聖視されていたと考えられています。
今は水生植物が生い茂る癒やしの空間ですが、かつては水洗トイレの排水も流れていたようです。それも自然の摂理として神聖視されていたのかな…。

秋田城の中心部であり、政治・行政の中枢を担ったのが「政庁・建物跡」です。
東西94メートル、南北77メートルに区画された広大な敷地には、正殿や脇殿などの建物の基礎部分が復元されています。
ここで、朝廷から派遣された官人が重要な政治や儀式を執り行ったり、渤海国からの使節と外交を行ったりしていたと考えられています。まさに政治・経済の中心地ですね。

隣接する秋田城跡歴史資料館に展示されている史料や出土品を見ると、秋田城が担っていた重要な役割を知ることができます。
時間のある方は、事前にそちらを訪れてから遺構を巡ることをおすすめします。

今日の夢中は、城ぶら「秋田城」!いにしえの歴史と技術に触れる…北の要衝を守る古代城柵でした。
ありがとう、秋田城! いにしえのロマン広がる古代城柵でした。

■基本情報

名称:秋田城跡
住所:秋田県秋田市寺内大畑5
アクセス:JR秋田駅からバス 20分「秋田城跡歴史資料館前」下車

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